停戦


いまはまだ、少し酔っているので、今日は手短に書くが、べつに今、とくにおめでたくはない。嬉しいとか安心したとか思ってはいない。数ヶ月根を詰めてきたが、それについてとくに、達成感もないし見返りを求める気持ちや想像枠内での報酬を形づくるイメージもない。結果的には、例年よりも確実に、成績は悪いのだから、ことさら喜ぶべき要素も、とくにないと云って良い。定められた日時の指定場所を舞台とした、とりあえずの攻防戦は終わったが、単なるカタルシスに浸っていられる訳でもないようだ。種々の事後処理が例年の数倍の規模で残存している現状では、おおよその評価を総合した時点での、楽観ムードはまるでない。


でもとりあえず本日の夜は、独りで祝杯をあげた。仲御徒町駅を降りて、ふらふらと歩いて、じつに久しぶりの店に行った。別に顔なじみの店員がいるわけでもなく、客に知り合いがいる訳でもない。ほぼ満席の店内のかろうじて空いた一席に、ただ坐って、メニューの変わってる箇所だけ流し見て数品注文して、何度か酒を注文して、ほとぼりのさめた頃、さいごに蕎麦をいただいて帰った。店にいる間ずっと、飲み食いしているというよりは、品目を以前の記録に照らし合わせて、同一性や相違生についてだけを、いちいち確認するかのような時間だった。そして良くも悪くもないまま、会計して店を出た。久しぶりに監査実施できたことの満足感をおぼえた。


でもあの頃はまだ、小泉がいたのだが。メムバーの変更がもたらした傷跡の痛ましさ。タスク達成効率の低下を問題としているのだろうが、こうして独りで祝杯をあげざるを得ない現状こそがほんとうに憂うべき情況なのだ・


でも「場」のために働いている人なんて独りもいない。それもよくわかる。やっぱりこの世は生きるか死ぬか、それだけなのかもしれない。それだけだと言った方が聞く相手にとって親切だという情況も少なくないだろう。道はけわしいということだ。