物語


昨日も今日も電車の中はさすがにすいている。田中小実昌の九十年頃の、哲学に関することばかり書いてる時期の本を読む。書かれた時期の何年も前から、以前は好きだったミステリーも読めず、それどころか小説全般をまったく読めなくなってしまって、哲学書の翻訳を一冊一年とかかけて、ゆっくりと読んでるような感じのときだったらしい。読んでるというか、字を追うというか、でも、たしかに読んでいるというか、何度も出てくる同じ言い回しやパターンを何度も咀嚼しているだけのような読書。そういうのもなるほど、それもたしかに判る気がするが、でも僕は今のところはまだとりあえず小説、というか、物語が面白い。まだもっとたくさん物語が読みたい状態。たぶんあと十年や二十年は、ずっとそう思っているんじゃないだろうか。たまにはミニマルや現代音楽のCDも買うけど、やっぱりポップチューンのギターロックが最高だということ。コレ重要。ロック・ミュージックには本来、ミニマルもエレクトロニカもジャズもノイズも全部内包されているので、それを聴く耳のある人はちゃんと聴いている。聴く耳がないくせに妙にロック・ミュージックを毛嫌いして小難しいものだけを好んで聴くポーズを取りたがる連中もいるだろうが、寺山修司風に言うならば、ロック・ミュージックを軽蔑する人間はつまるところ軽蔑に値するロック・ミュージックにしか出会えないのであって、そういう人間は結局、軽蔑に値する音楽にしか縁がないのだ。というか、えらく話がずれたが、でもまあ僕もまだ、要するにやっぱりまだ、知らないことが多い。物語が、なぜ面白いのか?というと、僕がまだそれを知らないからである。やっぱり、知らないお話というものほど面白いものはない。旅行も、食い物もそうだけど、まだ知らないということほど素晴らしい期待値はない。逆に、飽きてしまうともうほとんど全部飽きてしまうようなものだろう。でも、それでまあ、この立ち食いソバは毎日食っても飽きないとか、そういうのだけは自分の記憶にしぶとく生き残って、いつまでもそれを食い続けるのだろう。それはもはや教養とか洗練などではまったくないし、趣味とか体質とかそういうたぐいですらない、単なる惰性というか、慣習みたいなものなのだろうが、でも惰性に馴染むというだけでも、本当はものすごいことだ。それが苦じゃないというだけでもすごい。どうせなら、一生の仕事にしたらどうだろうか。