眠る


電車の座席に座って読書をしていたはずが、気付いたら寝ている。文庫本を持ったまま、両手の指の力が少しずつ抜けていって、本が少しずつ斜めになっていく。それを、向かいに座っている就職活動中の女性がぼんやりと見ている。寝ている僕は、俯いて、目を瞑っているだけのはずだ。身体は揺らぎもせず、読書中にたまたま目を瞑っているだけのようにもみえる。しかし、実は眠ってしまっている。流れていく時間のところどころに石灰色のブランクが生じ始める。両手の指から少しずつ力が抜けていく。その指が支えているのは、どうやら文庫本らしい。文庫本をいま、開いた状態で僕の両手はそれを持っているようだ。本が、すこしずつ動き始めた。本が、まるで生き物のように、僕の手をすり抜けて、勝手にどこかへ行こうとしている。体をもぞもぞと動かして、下の方へずり落ちようとしている。とっさに捕まえる。指に力がよみがえり、ぐっと持ち直す。視界が開け、不快な覚醒感に包まれる。向かいに座っている紺色のスーツを着た女と目が会う。本を取り落としそうになって目覚めたようだ。本を落としそうになったのだから、完全に眠っていた。完全に眠っているのは見ていればわかる。そしてどうせ、もうしばらくしたらまた眠るのだろう。本を読むでもなく鞄にしまうでもなく、曖昧に両手を添えたまま、またその身体全体が静止する。また早速、眠りへ向かおうとしている。俯いて、目を瞑っているだけの状態。一刻も早く眠りそのものへすぐ向かおうとしている。自分が無防備に眠りそのもののような姿で眠っていることを眠っている人は知らないはず。眠っている人は自分が眠っていることを知っていたとしても、今私が見て知っているようには自分自身を知ることがない。でも、さっき新高島駅を通過したことだけは、眠っているのに僕は知っているのだ。これはなぜなのか。だから次の軽い衝撃を起きたならば、僕はその場で飛び起きる。さっと立ち上がって、停車駅を下車するのだ。起きた僕はいつも別人だ。座席を立ち上がった瞬間、向かいに座っている就職活動中の女性と目が会う。きっと僕が、眠っているとはわからなかっただろう。寝ている僕は、俯いて、目を瞑っているだけのように見えるはずだから。