武蔵小杉であらかたの乗客がどやどやと降りていった。次の停車駅は中目具である。いま車内はすいている。僕は吊革に掴まっている。目の前の七人がけの座席には一人か二人しか座っていなくて、僕の立っている前も空いているが、次で降りるのでそのまま立ったままでいる。ポケットの中の携帯をまさぐっていたら、肘があたった。あれ?と思って振り返ると、真後ろに誰か立っていた。こんなにがら空きの車内で、なんでこんな近くに背中合わせで立っているのか。ポジショニングがおかしい。とりあえず僕が何歩か横にずれた。上の網棚に乗せた鞄に手を伸ばして、ずるずると引っ張りながら位置をずれた。それで、とりあえずそのまま、窓の外を見ていた。電車が走っている間、終点の渋谷で降りるつもりの人々が先頭車両の方へどんどん移動するので、自分の背後を幾人もの人が通り過ぎていくのだが、なぜか毎度毎度、心なしか背後の人々が、通り辛そうなので、なんで?と思って、もう一度振り返って驚いた。なんと僕の背後にさっきの人が、また背中合わせみたいな状態で、真後ろにいた。通り抜けようとする人々は、僕と背中合わせに立ってるこの妙な人物との狭い隙間を何とか通り抜けるのに手間取っているのである。うわ、なんだこいつは、と思って、さらに位置をずらすべくもう数歩横に移動してみた。とにかく背後を合わせないように、横へ横へずれる運動としてひたすら移動。もうドアに近いあたりにまで来た。網棚の鞄は、仕方がないので網棚から降ろして自分の肩にかけた。鞄を肩掛けすれば、当然後ろに鞄が出っ張るので、それだけ背後を通り抜ける人に対して障害物となるのだが、この情況では仕方ない。なるべく自分ひとりだけしか空間を占拠しないように、情況に応じて移動可能な体勢を維持する。それにしてもなんで、あの女はぼくと背中合わせになりたがるのか。たまたま、偶然かもしれないが、それでもやっぱり駄目である。偶然に、そんな事態になってしまわないように、皆が細心の注意を払って、全力でお互いに配慮しているのだ。みんな、それをかたときも忘れずに、様々な条件下で頑張っているというのに、一人だけ純朴風に、え?全然そんなつもりじゃなかった、などと言ったところで、そんなの言い訳レベル以下の幼稚な自己中心性に過ぎない。まあ、ひとまず再移動して、とりあえずここで、お互いほど良い間隔を保てるはず。これでまた、べたり背後に密着されたら、それこそただの変態だろう。。そう思ってふと後ろを見て愕然とする。いつ移動したのか知らないけど、こいつは、驚くべきことに、またちゃっかり、すでに僕の背後にいるのだ!これはもう決まった!確定だ。嫌がらせだ。わざとやっているのだ。頭にきたぞ。他人の背後に貼り付いて楽しんでる一派だ。背後を取る系サークルとかあるのか知らないけどとにかくこいつはやばい。何の意味があるのか。このクソ暑いのに何やってんだ。というか、行動早過ぎだろう。やばいなあ、もう帰りなのに、疲れるなあ、でももう、こうなったら、ここまですき放題やられてしまった以上、こっちも一言ガツンと言ってやるか。おい、お前俺の背後に来るんじゃねーよと。は?何言ってるんですか?とかなんとか言われて、しらばっくれられたらどうしよう。それも困るけどね。でもなんだか、これじゃああんまりだ。泣き寝入りは無理だろ。よしこうなったらもう本気で言ってやる。そう思って、意を決して、いざ、ぐるりと振り向き、相手の顔をまともに見てやったところ、またもや驚くべきことに、後ろには誰もいなかった。誰も、いなかった。空いた車内に僕と数人の乗客だけである。風が、吹き抜けて行くようである。あと、目の前に、ほぼ等身大に近い高さを幅をもつ鏡がある。それだけだった。それだけと言っても、電車の中で自分の背後に、いきなりそんなでかい鏡があるというのは、異常なことである。しかしそれはともかく、今まで僕がずっと、誰かいると思っていたのは、この鏡に写った自分の後姿だったということらしいのだ。そう聞いても、俄かには信じがたいが。とりあえず、ああ、なーんだ。馬鹿じゃないだろうか俺。とりあえず今日は、相当恥ずかしいぞ。そうか。なるほど鏡がずーっと背後について来ていたんだったな。これはうっかりした。勘違いだった。えらく面目ない思いでござるな。でももうたぶん大丈夫。今後とも活動しますので引き続き宜しくお願い申し上げます。やれやれだ。と思って、でもすぐに読みかけの本を開き、そのページに意識を移し、没頭した。ところがもうまもなく中目黒に着く。ほんの一瞬手前で、日比谷線の始発電車が絶妙なタイミングで得意気に滑り込んでくるはずだ。そうか、ああ、そうだったな。僕は本に栞を挟んだ。そうしてようやく、ドアの前に立ったのだ。おそらく鏡を背負った状態のまま、ドアの開くのを待った。