Attica Blues


おとといはでかけた。昨日もでかけた。今日は家に居た。私はいまいったい何をやっているのか?


深沢七郎の「笛吹川」読了。まさに、引きずり回されたという感じ。これはほんとうにすさまじいな。いったい、どういうわけで、このようなものが出来上がってしまうのか、呆気にとられたままの、そういう驚きそのものだ。謎そのものという感じの小説だ。こういうものを読んでしまうと、どこに焦点をあわせてものを考えれば良いのかがまるでわからなくなる。何を見ているのか?どこに焦点を合わせているのか?ということに対して揺らぎを与えられると、最初は大体、気づき難い気配のようなものとして、あるいは不快な違和感としてあらわれる。その後で戸惑いをもたらす。これ以上コミットするべきか否かを検討させられる。それまでのバランスや手順が狂ってしまう。


見たものや、聞いた事が、脳の中に取り込まれるとしても、脳全体は洪水のような混沌なので、一旦取り込まれてしまうと濁流に巻き込まれてしまったまま、もう二度と取り戻すことの出来ないところへ行ってしまう。なので何かを聞いたり見たり読んだりして、ああこれはあれだね、とすぐに脳内の記憶とマッチさせることはできない。トランプの神経衰弱のようなものだ。二つの札が揃うとすさまじいショックがある。


今聴いてる音楽はArchie Sheppの「Attica Blues」。夢のような音楽。かつて、何かが可能だと信じていたひとが作った幻想の音楽である。何かと直接的に交じり合うことなく、濁流の中にまみれたまま、あったのかなかったのかわからないような、あやふやな何事かとして聴こえてくるかのようだ。


そういう、あったのかなかったのかわからないような、そんなあやふやなことにばかり夢中になっていると、こんな事で良いのだろうか?と根本的な不安に陥る事がある。時間の流れがものすごく早い。うんざりするような気分とか、暗澹とするような不安とか、反対にうきうきと高揚した気分とか、何もかも沸いては消える泡のようで、あるというかないというか、そんなことばかりにかかずらっていて。


Attica Bluesの三曲目「Steam (Part 1)」を演奏してるライブ盤のLPが実家にあったはず。実家のプレーヤーはぼろくてすぐに音飛びしたので、この曲を聴くと音飛びしないのがかえって不自然に感じてしまう。ああ、あのライブ盤を今聴きたいな。今聴けたら、どんなにいいだろう。