橋東


ガリガリの痩身なのに、体脂肪率が60%の人間とかって、実在するだろうか。つまり、全身が、中トロみたいな肉質である。それは市場で高値で取引されてもおかしくないような、巨大な出刃包丁で切っても、血すら出ないような。脂肪を吹いた、ピンク色の断面が、ただ、おそろしくあぶらっぽくて、そのまま何も寄せ付けず、醤油すらはじくのである。痩せているから、腿と二の腕のあたりしか食べるところはない。山葵を添えて。


橋東は、たしか僕より三つ上で、当時でたぶん三十歳くらいだったはず。飲みに行ったとき、あいつが店の階段で転んで、膝に酷い怪我を負ったのだ。血の跡が階段に、汚らしくぽたぽたと大量に残っていた。橋東はその後店を出てから、怪我の痛みと酔いの苦痛に翻弄されて、真夜中の路上で空に向かって怒り狂ったのだった。クソが!なんで俺だけがこんな目に合うんだ?クソが!畜生!ほとんど泣き顔のまま口を歪めて短い言葉を吐き捨て続けた。たぶんそのとき橋東は、女から振られたばかりだったはずだ。女には振られるは、飲んで酔って怪我するわで、自分の事がつくづく嫌になったというような、そういう感じで騒いでいた。僕は、橋東の怪我の具合がどうなのかがわからなくて、しかし実は意外と大した事がないんじゃないかとも思っていた。少なくとも朝になって、青くなってがたがたと震えているとか、冷たくなって動かなくなっている、なんて事はなさそうだった。いずれにせよ、それにしてもいつにも増して、橋東の話はつまらなかった。僕も意志が弱く、誘いを断るのが苦手なため、つまらない話に最後の最後まで付き合っているようなものだったが、今思い返してみても、あの夜は実に退屈だった。橋東が怪我をしてくれたとき、かすかに嬉しい気分にさえなったほどだ。これで少しは黙らないかと。もっと痛みが増せば、もう少しは大人しくなるのではないかと思った。直接トイレの水で洗った方がいいのではないかと思った。そうしたらさすがに、いつもと違う変わった話もしてくれるかもしれないと、そんなかすかな期待もないわけではなかった。


結局、そのまま朝になって、橋東の運転する車で二人帰った。田んぼの真ん中の一本道の途中で、僕はふざけて、朝の空が白けていて綺麗だし、空気も冷たくて気持ち良いから、もしよければここで降ろしてくれと頼んだら、橋東は、おお、いいよいいよ、全然かまわないよ、ここで降りろよ。ここから歩いて帰れよ。と言って、裂傷を負った足でブレーキペダルを踏んで、車を止めた。ドアを開けて、僕は車を降りた。橋東はすぐに車を走らせて、そのまま走り去ってしまったのである。僕は朝焼けの、どこかもよくわからない田んぼの真ん中の道の真ん中に立っていて、とりあえずそのまま、とぼとぼと歩き始めた。開放感が嬉しくて、ほっと安堵して、こうしてのんびりと、一時間か二時間も歩けば、なんとなく知ってる場所には出るだろうと予測して、さわやかな気分で朝の光の中を歩き始めた。


しかしあっという間に、見覚えのある車が戻ってきた。運転席の橋東が、してやったりの顔で、歩いている僕を見てにやけながら車を止めた。僕は結局、ほんの数分後にまたしても橋東の車の助手席に座ることになった。見ると橋東の膝の傷は、流れた血が固まって、粘土で盛ったみたいな、冗談みたいなでかい瘡蓋になっていて、見るからに汚らしく、正視するのも嫌になるほどだった。俺、今日病院行くわーと、橋東はさっきまでとは違う不思議に朗らかな表情で、楽しそうに喋りながら前を向いたまま車を走らせている。僕は、ただ窓の外を見ていて、怪我するなんて馬鹿なヤツだと、今更ながらつくづく橋東に呆れた思いで、僕はあんな大怪我をしていないが、これからも、もう一生ああいう大怪我をしないで済むものだろうか。それともいつかは僕もやはり、あれほどの出血をともなう大怪我に見舞われる日が来るのだろうか?などと考えていた。やっぱり怪我をするヤツっていうのは根本的に、本質的に馬鹿ということなんじゃないだろうか。ほんとうに、これこそがもはや、どうしようもなく救いようがないという事そのものなんじゃないか。…隣に居る橋東を見る限り、僕にはそのようにしか思えなかった。そして、あぁこうはなりたくない。こうならないようにするには、いったいどうすれば良いのだろうか?そのすべがあるのだろうか?とひたすらぼんやり考え続けていた。