橋東の車


橋東の乗っていた車は、紺色の古いマーチのマニュアル車で、その車の助手席に乗ると、運転席にいる橋東と、橋東の身体を支えているシートと、橋東が握っているハンドルと、左手の下にあるチャチなパイプ椅子の足一本みたいなシフトギアと、足元に玩具みたいな三つのペダルが床から飛び出すように付いているだけで、それ以外は、何もない車だった。


 あれに乗って走っていると、橋東と僕が並んで、四つのタイヤが付いた鉄のシャーシに大人しく座っていて、その周囲に車のかたちをした紺色の殻がかぶさっていて、それら全体が外側から見たら、かろうじて車に見えるのだろう、という事が、嫌でも実感された。そしてそれらは、我々が、あるいはそれを見ている人が、少しでも気を許した途端に、簡単にそれぞれ、ばらばらになって、車としての連続性を失ってばらばらで滑稽な見た目を露呈してしまう危険と隣り合わせみたいな、とにかくおそろしく脆弱な繋ぎ目同士の、過重を分け合いながらかろうじて繋がり合っているに過ぎないのではないか。と、橋東の車については、そんな思いにいつも僕は囚われたままだった。


 でも、橋東はいつも僕をそのマーチで迎えに来てくれるので、仕方がなく僕はそのたびにしぶしぶ助手席に乗りこんだものだ。しかし、こんな車に乗っているうちは、僕の人生いつまで経ってもこのままの、一向に冴えないままだと思って、内心焦っていた。そんな思いを抱えながら橋東の運転する車の助手席で、流れる窓の外の景色を見ていた。


 しかし当時の僕ときたら、橋東の車が路上で、前後を車に挟まれただけで、訳もなく不安になったものだ。今こうして、一見車に見える何かに二人して乗ってはいるが、それはあくまでも今このときだけのまやかしの姿で、これは実のところ車ではなく、車には見えるがそうじゃないもので、それで二人示し合わせたようにもっともらしい態度で、路上に澄ましてのさばっているのが、実に図々しいような、恥知らずなような、自分が恥ずかしくなるような、そんな罪悪感をよくおぼえた。ビールが並んでいるのに、僕らだけが発泡酒だった。そんな感じだ。値段の高い安いもあるが、それだけではなく本当はもっと根本的に違うのに、それをわからぬふりしている。無知で図々しい無神経さ。気にしない人は気にしないだろうが、僕はいつまでも気にしていた。


 ある日橋東が僕に、あの車はもう車検を通さないつもりだと言ったとき、僕はほんとうに、こころから胸のすく思いがしたものだ。ああ、これでやっと、あの醜い塊がこの世の中から消え去るのだ、そう思ったら心がうきうきして来さえした。おお神よ、この橋東に祝福をお与え下さい。天国は彼のものであります。嬉しくて、身体全体がふっと軽くなったかのようにさえ感じて、橋東の事も何もかもすべて、今までのことが、取るに足らない些細でつまらない、じつにどうでも良いことばかりに思えて、ああ橋東という男も愚かで憐れな男だ。か弱き民なのだ。誰も彼もがそうなのだ。であれば、この僕もこれからは、もうちょっとこいつと仲良くしようかな、親友みたいな感じで付き合うかな、それが僕や彼の人生を祝福することになるのであれば、とさえ思うほどだったのだ。


 でも車を廃車するのがいつなのかわからないが、橋東は明日になったら、やっぱりやめるわ、とか言い出さないとも限らない。ちらっとそれを想像した途端に、どすんと気分が暗くなった。ああ、橋東なら言い出しかねないなあ、そういうヤツなんだよ、本当にろくでもない野郎で、必ずくだらない決断を下すんだよなあ…。と、想像が悪い方へ広がるばかりだった。


 この際、もういっそのこと僕があの車を、何とかして直接ぶっ壊せないものかとも考えた。火をつけるとかハンマーで叩き壊すとか、その手法について、色々想像したが、結局そんなことができるわけないとすぐに思った。たとえば、人を殺すとか、そういうのってきっと、実際やるのは、途方もないことなんだろうなあと思った。僕なんか、ぼろい車さえ壊すことができないんだからなぁ、と思った。想像のレベルですら無理なのだった。