彼女


まだ学生の頃に橋東が付き合ってた彼女は、僕も何度か会ったことはあるが、もう顔は忘れたし、名前もおぼえてない。ぼやっとした雰囲気だけおぼえている。それほど美人ではなかったと思うが、悪くもなかった。橋東が付き合ったのもわかる。すごい痩せていて華奢な女だったと思う。古着っぽい服が好きで、いつも少しくたびれたシャツの上にやはり少しくたびれたやや渋めな色合いのカーディガンを羽織ってて、スカートもずるっとした感じのヤツで、よくわからないけどぼろい感じのデザイナーズ系みたいな格好が多かったかもしれない。


そう、思い出してきた。痩せてて、首筋も肩も細くて、立っている姿はまるで、店頭の吊るしにぶら下ってる洋服が、宙に浮かんで風にひらひらしているようなもので、その上に細長い首とおかっぱの頭が乗っかっているようだった。横から見ると洋服の中身はまるで身体ではなくてハンガーが支えてるみたいに見えた。ベンチに座っているのを見たとき、まるで布だけがぐしゃっとなってるみたいに見えた。大げさじゃなくほんとうにそんな感じだった。


いつだったか、食堂でみんなで飯を食ってその後しばらく雑談してたら、橋東の彼女もいて、でも本当にすごく姿勢が悪いというか、痩せすぎてるから、座っている上半身がぐにゃっと前屈み気味に曲がっている感じに見えた。あんなにぐにゃっと、あれほど身体というのは湾曲するのかと思った。少し小さめのちょっと歪んだアコーディオンのような胸骨、肋骨、横隔膜からなるボックスがあって、その重みをたわみながらも下部一点にて支えている細い幹みたいな背骨一本があって、そのなんとも不安定で頼りない形態を想像してみてほしい。それが、橋東の彼女の座ってるときの上半身で、その身体のかたちがそのまま外見にあらわれていた。


橋東の彼女の普通に喋ってるところは正直思い出せない。あまり喋る方ではなかった。普段だいたい、曖昧に笑ってるだけのような印象しかない。たしか一度だけ、なぜか無茶苦茶怒ってるときがあった。なんで怒っていたのかはわからない。しかし、あれは相当怒っていた。かなり怖くて、なんかやばいと思った記憶がある。眉間や目玉の周囲から熱が放出しているのではないかと思うほどの表情だった。というか実際に、少し、ほんの1ミリ程度、目が飛び出していたかもしれない。とにかく怒りが目の前で熱に変換されているのを垣間見たような気になれた。瞬間湯沸かし器などという言葉もあるが、それよりもむしろ、あ、熱力学だ、と思った。まるでブレーキみたいな女だと思った。あのときどういう情況で、なんで怒ってたのかは知らない。


橋東の彼女が怒ってるそのときの光景を、なぜ僕が今でもおぼえてるのかというと、たしかあのとき、急に雨が降ってきたからだ。だから僕は中央棟のロビーに雨宿りしていて、そこで橋東の彼女が友達と一緒にいるところにばったり会ったのだった。そのときの雨はなぜか、お湯のようにあたたかくて、景色全体が湯気で濛々と靄がかかって、やたらと反射光のまぶしい異様な雰囲気だったのだ。雨脚は次第に強くなって、屋根や路上に、はじけた炭酸のように跳ね返って、水煙が幽霊のように立ち昇ってゆっくりと漂っていて、近くにいる橋東の彼女の、矛先不明な激しい怒りの熱をひしひしと感じながらも、立ちのぼる水煙の方ばかりを、ぼんやりと僕は見ていたのだった。おもしろいことに空を見上げると、まだ青い晴れ間がくっきりと見えたままで、太陽の光が夏らしい白い雲を輝かせていて、いったいこの空のどこに、この雨を降らせている雨雲があるのか、いくら見上げてもその場からでは全然わからなかったのだ。


これ以上はあまり、とくに書く事もない。橋東の彼女と言ったって、ろくに話もした事がないのだから、ほとんどよく知らないし。その彼女と橋東とは、おそらく半年も付き合ってないはず。あの頃は橋東も実に節操なくいろんな女と付き合ってたので、今ことさらその中の一人についてわざわざ書いてもしょうがないのだが、なんとなく記憶を辿って書いている。記憶も相当怪しくて、ほんとうに書いたとおりだったかどうかは、僕も自信がない。まあ半分はうそだと思って下さい。橋東から聞いた話を自分の記憶のように書いてる部分もあるかもしれないし。まあ友達の彼女なんて友達から聞いた話でしかおぼえてないから、ほんとうはどんなやつだったかなんて全然わからないのが普通だろう。