SMILE


ビーチボーイズの「smile」について何日か前に「あまりよくわからない」と書いたが、そう書いているとき、あぁ、今そう書いていながら、僕はおそらく明日から、書いたことと反対の方向に引っ張られていくだろうと感じた。


で、予想通りここ最近は「smile」のことばかり考えている。考えているというか、ひたすら聴いている。ブライアン・ウィルソンの「smile」を何度繰り返し聴いたことか。さらにビーチボーイズ名義の「smile」も。これは「The SMiLE Sessions」2011年に出たらしい外盤である。実はあと十日ほどすれば、「smile」の新しいパッケージが出るらしいのだが、僕が聴いてるのはそれではないし、新しいものとどう違うのかもよくわからない。しかし、なんというか、やはり「smile」はすごい。圧倒される。ブライアン・ウィルソン版ではヴォーカルに物足りなさを感じ、ビーチボーイズ名義版では全体的な流れの流麗さに欠けるところに物足りなさを感じる。だからその双方をひたすら聴く。


とはいえ、どちらにしても、実際に聴いているとちょっとイメージが「細切れ」過ぎやしないか?とも思う。各楽曲が互いが侵食し合うような、曲タイトルは割り当てられているものの実際には壮大なシンフォニー形式になっていて、その楽曲間の相互参照度合いが神経症的にものすごくて、これらを断片から作り上げていくというのを想像しただけで気が遠くなりもするが、でもこれは若干観念的すぎ、内省的すぎかなー?という思いも禁じえないのだ。でもまあ、そこが良いというのか何というのか、何しろ聴いてしまう。始めから聴き始めて、最後まで聴かないわけにはいかないのだ。そういう求心力はものすごい。


「smile」とは結局、未完成品の寄せ集めをリスナーがノスタルジーや妄想で補ってるだけの極めて不健全なシロモノだ、という話もある。確かにそのとおりかもしれない。しかしこの「そうであったかもしれない」「そうでなかったかもしれない」の狭間を揺れ動くような楽曲群の連なりは、やはり抗いがたい魅力を認めないわけにはいかない。


しかし、四十年近く前に、ある一青年が頭に思い浮かべてレコーディングを重ね、やがて断念して放棄した音楽的イメージを、その後おおまかな形だけでも良いからなんとか再現しようと、世界中のあらゆる人々がこれほどまでに躍起になって残された音源と想像力組み合わせの謎に嵌っていて、遂にはその本人が自分名義で解答とも言うべきアルバムを2004年にリリースしていて、その後にも関わらず、それに納得できない人も多数いて、なおも謎は深まるばかりな情況というのは、なんというか、個人から表出される表現活動という営為に対して、人々が思いを募らせる甘い幻想のような、かつて存在しえたはずの、このうえなくうつくしい音楽というまるで天国のようなものの、耳に聞こえない幽霊への郷愁とでもいうような感じにも思われる。