ロングコース


 コースロープにで区切られたプールの淵に立って、水に足を入れて、そのまま身体全体を水の中に沈めて、頭の先まで沈んで、浮き上がって水に身体を任せながらゴーグルを装着して両目に強く押し付けて、もう一度、頭の先まで水に沈む。ゴーグル越しのクリアな視界で、プールの底を見る。水の濁りとゆらぎを見る。両足をプールの底から離して、深く膝を曲げて壁を蹴る直前で待つ。体が前に沈んで、前傾姿勢になる。頭まで沈んで、全身がゆっくりと水中に沈降していくと同時に、ぐっと両足で壁を蹴る。身体が前に押し出される。ロシア語でのアナウンスを聞き流す。混合塗料の外皮につつまれて葉巻型の自分全体が、ゆっくりと、まっすぐに進む。低く水の音が耳に聴こえる。身体に水の抵抗を感じる。夥しい数の細かい泡が、周囲を走り抜けて、やがて四散して星屑のようになって、暗闇にのまれて消えていく。身体は真横になった状態を保ち、水中を進む。コースの五メートルラインの手前で速度が落ちるので、右腕から水をかき始めて、次に左腕で、さらに右腕で、交互に水をかいてスピードを維持する。キックをリズムに乗せる。30分泳ぎ続けた場合をイメージして、本日の身体負荷の相場を予測する。体内では既に、酸欠の現象が各部位で発生しており、血液の循環はめまぐるしく行われて、システム全体の稼働率が大幅に上がって、大半の余裕を失って内部温度が急激に上昇し始めた。体の表面を炎のような冷気がなめはじめる。身体に沁み込んでいた液体のような熱が、じょじょに乾いて、濡れた範囲が少しずつ狭まっていって、やがてなくなる。蒸発した熱が、首元や脇の下やみぞおちのあたりから、あるいは足元の裾の下から逃げて空中に飛散していくのを見送る。洋服を着ていることに気付く。なすすべもなく、寒さに耐えるしかなくて情けない気分でいる。我慢できずに、思わず口ごたえしたのだった。その程度ならわかってます、そう云い捨てて出てきてしまった。たしか高校二年のときの、お正月の頃の、電車の座席の暖かさだけが、唯一の暖かい場所で、それ以外はすべて寒くて、座席に座ったら下から崩れて溶けそうになったことがあった。膝の上に乗せた鞄が大きくて冷たくて重くて、やがて足の感覚が消えて、自分が上半身だけになってしまっていた。