蜂の旅人


 北千住の東京芸術センターでアンゲロプロス「蜂の旅人」。今日は雨のよく降る日。わりといい雨。紫陽花が目に見える勢いで花を咲かせ始めた。

 家出娘を演じた女優の、この裸体はすごかった。下着姿でベッドに寝そべっているときの、剥きだしの肩や太股の大臀筋のかたちや、映画終盤の、廃墟となった無人の映画館の白いスクリーン前で晒す全裸の、そこに落ちる陰影が、ほとんど古典的な技法で描かれた油絵のようで、少しラテン系な雰囲気ももつその表情など、まるでミケランジェロの描く人物のようでもあり、これは今の自分には、この肉体を、若さとは思えない。もっと老成したもののような、いや違うか、裸の身体とは、ああいうものだっただろうか。忘れているだけか。たしかに、あるせつなさをたたえた、ある密度をもった塊りであって、これを書いている今はそう思われるが。そしてその裸身を、最後は主人公が固く抱きしめるときの、たしかに今、思い返してみればうつくしい叙情性を感じないわけではないが、しかし観ているときはそうは思わなかった。身体というのはどうしてああして、強い抵抗としてあらわれるのか。

 それに較べるとマルチェロ・マストロヤンニ的な、初老の、枯れてもいて、孤独な寂寞感も漂わせてはいる感じというのは、とくに驚くようなものでもなく、自己愛的な内省の、世界共通といっても良いような、初老男性であればある程度、誰でも取替えのきくような共通のものとしてあり、だったらではこの後、どうやって死んでしまうのかという点に、観ていて興味をもつのだが、ラストシーンなどは、あまり終わってる感じがしなくて、こんなのでは、まだまだ全然死なないだろうと思わざるを得ない感じで、たぶんこの後、まだ五年か十年か、あるいは下手するとそれ以上生きてしまうのだろうとも思えてしまう。その先の方がよっぽどおそろしいはずだが、この映画では、そのずいぶん手前で終わった。

 だいたい、枯れているようでいて、でもじつは、かなり精力も旺盛で、生きる気力もけっこうあって、なんかこう、じつは隠れたところで妙にぎらぎら、ぎとぎとしてるというか、端的に生き物としてまだまだ電池の残量が余ってそうというか、日本の(この前テレビをつけたら「大病人」という映画に出ていた)三國連太郎とか津川雅彦とかみたいな、ああいう食い意地も性欲も金銭欲も常にパラメーター設定は初期値高めな感じの、たとえば活躍するとか、生きがいとか、実業家とかの、そういうことに重きを置く人間が必ず漂わせている生臭さというかの、そういう濃厚さというものを初老の男性が完全に無くすことはおそらく無くて、初老の男性のウロウロと彷徨するのを見ているというのは、どうしてもお決まりの、さんざん乗り古したクルマにまだ乗っていなければいけないようなウンザリした感じの、重たいかったるさの繰り返しを見ている事になってしまって、過去を回想する老人というのが結局、老人問題というよりは青春問題のわかりきっていることの再生になってしまうということでもある。

 しかしそれはそれとして、アンゲロプロスの映画でいつも思うことだが、夜明けに近い時刻の、誰もいないカフェの並んだテーブルと椅子のひとつに腰掛けて、そしてふっと脱力して窓の外を見るときや、渚のパラソルの下のテーブルと椅子が並んだひとつに腰掛けて、ウェイターが注文を取りに来るとか、船着場でフェリーがゆっくりと近づいてくるのをじっと待っているとか、ああいったものを観るたびに、私はつまりこれを観に来ました、といつも思う。曇天の海辺は視界すべてが灰色のスクリーンのようで、思い出すだけでもアンゲロプロス映画への懐かしさがこみあげてくる。またあれを観たいとおもって、何度でも観にいってしまう。それは観るものの良さというよりは、時間の流れの中に浮かび上がるものの良さに近い。今日の作品は比較的薄味な方だったが、やはりアンゲロプロス的な時間の流れ方というものの強い現われ、その時間を味わいたいということか。

 と、書いていて思いだしたが、映画が終わった後、結局は三十分くらいは、主人公に感染したような気分になって、やや俯き加減で、あてもなくふらふらと彷徨しながら、地下の鮮魚売り場とかを、見るともなく見て、その後、プールに行き、三十分ほど泳いだ。泳いでいると観ていた映画の事は完全に忘れた。そしたら今日は子供水泳教室がすごい人数でやっていて、大人は端の1コースに追いやられていたのだが、父兄参観席みたいなのが窓の向こうにあって、温水プールの室温のせいでそこのガラスが曇るので、スタッフがしきりに窓ガラスに水をかけて視界をクリアにしてあげている。

 で、それがどうしたのだ。まるで水族館の生き物だな。ある程度泳いで、プールサイドで休んでいた。全身の疲労感と呼吸が整うまで、ベンチに腰掛けて、隣のコースに子供が鈴なりになって並んでいるのを見ていた。まるで陸地を真っ黒に覆う大量のペンギンの群れが次々と海へ飛び込んでいくときの映像を思わせる。浮き板を抱えて次々と足をバタバタさせて、水飛沫を上げながらコースの真ん中あたりまでゆっくりと進む。次々と行列になって、プール全体が沸き立つようになっているのを、しばし呆然として見ていた。はっと我に返って着替えに戻った。