実感


 こうして、一日の出来事のなかから、何かを書こうとしても、じつによく、思い出せないものだといつも思う。これは、ここ数年で、より強く感じられるようになったことである。今日なども、比較的安静にしていたほうの一日だが、今振り返ってみても、驚くほど思い出せず、その事実に驚いてしまう。

 しかし、ここ数年でそれを強く感じるようになったということは、そもそも、それ以前はそのようにして一日を振り返ってなかったのだろう。発生したイベントについて書く、ということではなく、今日について書く、と思ったとき、驚くほど書くべきことを思い出せないという事実に、はじめて気付いたということなのだ。

 くわえて、そもそも、今日について書きたい訳ではないというのも、不思議というか、面白いところだ。書く目的の素材として、今日という単位をとりあえず俎上に載せるから、今日について、ということがはじめて出てくる。書かれるべき今日というものがあるか無いかが、まず問われる。

 これはほんとうは良くない。書かれるべき今日があったりなかったりしては恣意的に過ぎてまずい。しかしそこはほぼ常に、一日をほぼよく思い出せない結果が返ってくるので、結果的には毎日同じように困っているため、そこは一定である。

 今日のことであれが印象的だったと思った地点と、そう思った地点も含んで、また別の場で思う今日とがずれるので、結局は今日の何を書くのかというよりは、今何を書くのかという部分から一歩も出られない。その息苦しさの積み重ねである。

 今日のことではなく、一昨日のことや、先週のことを書く場合もある。夢で見た内容がいちばん強く思い出されるなら、それについて書くこともある。または、そのとき思いついたことを書く場合もある。あるいは、何も思いついていないことについて書く場合もある。何も思いついてないことについて書くというのは、その場でいきなり書くのである。これはとにかく文字数や行数を放り込むということになる。いずれにせよ、これらはすべて、今、何を書くのかについてである。こういう夢を見た、と書くとき、その夢は今見ているようなものである。

 映画の感想などもそうで、その映画を今見返しているようになる。書いた内容について、後で上手く書けなかったと思ったり後悔したりするのは、実際に映画を観たときの内容、をさらに後で思い返したときと、感想を書いたときに観た内容とのずれが、思いのほか大きかった場合であることが多い。いや、ずれが大きくてもかまわないのだが、感想を書いているときの、観ている映画に強さが足りていなかったときが、良くない。

 ここで、だからもっと力強くやらないとダメだ、という結論にしてしまってもいけない。ぐっと入り込んで、深く沈静して、集中するということで良いのか、にも疑問がある。

 実感というもので解決させるのではなく、実感というのは第一条件として抑えないといけないものである。力強くやらないと、という言葉は、まず実感を、という単純な目指すべき道の再確認である。それはひとまずそれで良い。それがないとさすがに、まったく駆動力を生み出さない。

 そこからはあまり何も見えないように思われるのだが、結局はそういうものなのかもしれないな。登山していて、靴は汚れて擦り切れていくのだけは明確にわかるから、それで自分が登山しているということを確認できるのだが、いったいどの山にどれだけ登っていて、この後、どうなるのか、そもそもなぜ登っているのか、そのへんはわからない。というか、登山というものの実感というのが、その登山靴のディテールとか汚れ具合、擦り切れ具合の問題そのものでしかないという。そう書くと、その登山靴についての事になってしまうので、もちろんその時点で、この話もダメなのだが。

 夢について、昨日の夢が良かった場合なら、それを書きたいと思うのも実感尊重だからだ。それは、書く気にさせるものなのだ。

 あえて書くなら、昨日草むらを歩いていて、見渡す限り背の高い雑草というか、ススキのようなぺんぺん草のようなのが生い茂っていて、遠くには高い送電線がいくつも、地平線の向こうまで並んで連なっている場所をずっと歩いている。さっきまでは、住宅地を通り抜けてきていた。寺の塀が続いていて、裏口に軽トラックが止まっていて、農家の作業道具が納屋にあった。

 後で調べたら、その道は横浜から菊名までの間にある、何と言う場所かはわからないけど、歩いていれば通りかかる場所だったことがわかった。あのまま、あと二十分も歩けば、たぶん菊名駅までたどり着いた筈だった。たぶんその場で、地図アプリケーションで調べてわかったのだ。しかし、かなり田舎の風景で、埼玉県のような景色なので、かなり意外だった。

 そういう夢であった。