読むことと、書くことは、実はそれほど変わらない行為なのだ。


読んで、色々と思ったり考えたりする。それを後で、書くかどうか。…読むことと書く事の違いは、実際それしかないかもしれない。実際に書く事は、読むことなしには成り立たないし、読むことは、実際に書く行為以外のすべてをすでに含んでいる。


実際に絵を描く人が絵を観るのと、そうじゃない人が絵を観るのは、違うという意見があるが、これもまったく違わない。実際に描くかどうかの違いしかない。というか、誰でも実際に絵を描く可能性がある。そういうことをまったく感じてないで、最初から「自分は元々絵を描く人だからその視点で観る」などと自分で思ってる人が一番ヤバイ人。


だからなぜ、自分は絵を描かないし、自分は文章を書かないと、あらかじめ決めているのか、問題はそこである。別に書かなくても良い。作家だろうが画家だろうが学生だろうが、誰も書かなくて良い。しかし、それでも書いてる人と何かが違うわけではない。むしろ、逃れようがないくらいに、同じである。職業が違う、専門家ではない、プロとアマの違い、みないな意味と同じようにとらえてしまうのが大きな間違い。その時点で、社会の決まりに流されている。


君はもっと、今までの君を大事にしなければいけない。今この時間を大事にするというのは、そういうことだ。僕はもし、今の君が今までの君をこれまでのように大事にせず、投げやりにしてかまわないというのであれば、今の君に対して僕は怒る。君はそれでいいと思ってるのかもしれないけど、君は、今だけの君ではなく、それまでの君とのやり取りを通じて、今の君であるはずだ。その昔の、まったく子供の時代から、君が君らしく居た頃からの、ずっと途絶えることな通信が続いている、その電信の履歴そのものが君のはずだ。君には、そんな風に、今だけでない君に対して常に責任があるのではないか。なぜ僕がそんなことを言うか、それは僕にもやはりそれまでの過去の自分との通信履歴があって、そこにはどうしても裏切れないような約束というかそういうものがあるからだ。そのように何かに縛られているのが僕や君の条件であって、その上で話をしたり同じ時間を過ごしているので、前提となるそれをわきまえないで、単に時間を流しているのは怠惰で、その怠惰は何か自分の想像力の外側にあるものを殺すことにつながる。過去をなかったことにして、しらばっくれたときのあの白けた顔を選ぼうとすることで、そういう間接的な暴力を選ぼうとすることだ。もし君が怠惰にかまけて暴力に加担するなら、僕はその君を怒る。


本に書いてあることが大事なのではなく、こうやって手にもって本を読んで、そのときに自分に起こることが重要なのだというのを、つい忘れてしまうのだ。本など、どうでもいいのだ。こうして読んで、そこに浮かんでくること、それについて考えている事、それだけが大事なのだ。


本を読むというのは常に挑戦であり、上手く行くか行かないかは、やってみるまではわからないのだ。本を読んだら、必ず楽しいとか、必ず満足できるとか、そういうことを言ってる人は、ほっといて良い。そういうのとは全然違う。本を読むというのは、楽器を演奏するようなものだ。手慰みで知ってる曲をやるようなときも勿論あるだろうけど、それでも楽器を演奏するのは、やはり、常に挑戦のはずだ。あたらしい局面を迎え入れる準備をして、神経を尖らせて、それを待つ行為のはずだ。


僕が何かを描くとか、書くとか、書かないとか、そんなことはどうでもいい。問題は今、二人で良い環境下において、きちんと何かを待つことができるかということ。それに尽きる。それ以外のことはどうでもいい。


練習だ。自分が嫌でも、毎日やるのだ。自分で自分自身を毎日、挽き肉を作る機械に入れ込むのだ。そうやって、少しずつ自分を挽いていくのだ。信じられないようなことを、数日後にはできている自分がいるのだ。見え方や聴こえ方がかわっているのだ。自分という存在を、単に何の変哲も無い、エンジンをかけて走り、エンジンを切って止まる、いま駐車場に停車されているふつうの自動車と同じようなものとして、自分を認識できるということなのだ。地面を踏む感覚を音で聴き、残酷なことにも慣れて、悲しいことにも動じなくなるのだ。


最初から、そうと決まっていること、当たり前の、動かしようがないと思われるようなことに対して、まるで別のように、読み込んでいくことなのだ。笑われるような、どうしようもない誤読のリスクは世間並みに踏まえた格好で、あとは思い切り、挑戦するのだ。僕たちが、もっと自由になってもっと幸福になるための、それが挑戦なのだ。


まるで「原型」があるかのように、皆がそうだと信じて、何もかもが動いているけど、馬鹿馬鹿しいのだ。それが間違いなのだ。そんなのはまるで、信じる必要はない。平然と踏み付けて行けば良いのだ。本とは要するに、今読んでる、この箇所でしかない。本全体なんてものは、現実には存在しない。それを在ると言い張る人間は無視してかまわない。今、ここのこと。その箇所を好きだと言って、いつまでもそれを忘れないこと。それしかないのだ。そこから、何かをはじめて行こうじゃないか。


僕はまだ十代の頃、自分に恋愛の相手がほしいとは思っていただろうが、その相手と恋愛関係をもちたいと思っていたかというと、それとはちょっと違っているような気はして、その相手に自分の考えを伝えて、相手の考えも聞き、お互いがそれ以上、とくにもう話もなくなれば、その時点でひとまず何かが停止して、その停止は、ある種の祝福すべきことで、それでとりあえず、近々の煩わしさや面倒ごとから、互いに自由になれるはず、と思っていたという方が近い。だからそれはどちらかというと、悟りとか解脱への期待に近かったのかもしれない。


ふつうに二人が同じ場所に居て、その理由は突き詰めればたしかに謎なのだが、中心にある謎は謎として、それはそれで、日々はとりあえず、お互いが自分の関心ごとに集中できていれば、それがもっとも素晴らしいと思っていた。素晴らしいというか、そういうバランスのとり方を共感が支えるというような関係が良いのだと思っていた。


それは若いときに特有の想像を含んだ間違いだった。結局は、そう簡単に一人である事と二人であることの根本的な断絶を解決できるものではなかった。でも現在において、ある意味では、僕が十代の頃思い浮かべた夢みたいなものは、今の時点でもしかすると実現してしまったといっても過言ではない気がする。でも、その夢自体が、それ以上先に進めるようなものではなかった。プロセスではなく当初の理念自体に問題があった。


これはまだ、若い頃の話。今はそんな想像だけの話は信じてない。でもそれとしても、今は、どうしても資本主義に毒されてしまっていて、人が二人集まるとなぜか急に役割とか比較とかそういう話になってしまうのだが、なにしろそういうことに囚われないのが先ず大事なのだと思うが、どうしてもなかなか、時間の過ぎ去ることの恐怖や変化の恐怖が、人をある枠組みの中に囲うことの安心感に誘うので、そこへなぜ行かないのかという話が始まってしまう。人間も猫も、多少の差はあれ、さっき自分が何をしようと思っていたのかを、大抵は忘れてしまって、それを相手に聞くことから関係を始めるしかないというのが情けないところだ。


何ができるのか。何の、意味があるのか。利害の共有で、一致は可能だ。それはおそらく、たやすいだろう。しかし、それ以上。なにかもっと。


それにしても、ネコに他者は存在しないのか。ネコはずっと、ネコのままだというが、ネコにはネコの世界があるのかどうか。


ネコも人間やその他の動物と同じように、自然からあらわれ、自然にかえっていく、親の愛を受けて育つ。ネコもネコとしての交換様式のなかにいる。しかし、ネコにネコの共同体を形成する可能性というものがあるのか。そこに互酬というものが起こりうるのかというと、それはないのか。ネコには、他者がおらず、贈与へのインパクトを感じないようにみえる。


私は自分のなかに強い気持ちがなくなっていくことを恐れる思いがある。わたしは財布を落とす、というとき、たとえばそれはほんとうに、自分ひとりの力ではないものの力を感じる。


昔の、まだ戦前とかの時代だと、テレビなどもない時代。戦前の映画に出てくるような風景。それが見える。ふだん、ほとんど意識していないような、いわば聴こえていない音があたり一帯に共鳴している。昭和初期、自宅周辺の道。人通りが少ない。音がまったくしない。冬の太陽が地面に降り注いでいる音だけしか聴こえない。


言い方はどうあれ、言おうとしてみて、言ってしまってからでいい。やることに意味がある、というのではなく、言ってしまったことに対してもう一度やるということ。言いなおすとか、注釈することでもなく。言ってしまったことそのもののなかに再び入って、ということ。


これも昔の話。まだ学生の頃だったと思う。誰かの車に乗っていて、夜の暗闇の中、ヘッドライトに照らされた路上の範囲だけしか見えてない夜の中を無言でいた。そしたら、センターラインの少しわきに、何かが落ちていた。


あ、猫だ。猫だったでしょ。と言うので、そうかも。死んでたかもね。と言った。


その後、しばらく無言。


しばらくして、もしかしたら生きてるかもしれない。と言う。いやぁ、それはないでしょ。わかんないけど、たぶん死んでると思うけどね。と答えたが、なぜそう言えるのか、まだわからないし、もし今戻って助けることができたらほんとうにすごいことだし、このまま行ってしまったせいでこの後死んでしまったら後悔してもしきれない。


しかし、それでもわざわざ引き返して確認しに行くなんて…。


結局、わかったよ、じゃあ戻ろうと言った。車が、Uターンをはじめた。僕は、内心閉口した。まじかよ、どうする気だよ、と思った。来た道を戻って、現場に到着。車を降りた。やはりそれは、猫の死体だった。さっきちらっと見たのと同じ場所に、同じようにあった。車を降りて、路上に立ってそれを見下ろした。よくよく見て、うわーっと思った。四肢を伸ばして、そのまま死んでいる。頭部が縦に、ぱっくりと、まるで刃物を入れたように割けている。たぶん強くあたった衝撃で割れたのだろう。血は流れていない。乾いていた。ある程度、時間が経っていたのだ。もうずいぶん前に死んでいた。遅すぎたのだ。


ほらー、全然生きてないよ。こりゃ酷いな。そう言うと相手は、でもこのままじゃダメでしょ。道の端っこまで移動させないと、このままだと車にどんどん轢かれてしまうでしょ。と言う。え?どうするの?と言うと、なんとかして路肩まで動かそうという。


ありえない、と思ったが、しかし結局、僕が死んだ猫の両前足をもって、その死体をずるずると引き摺って路肩に寄せてあげた。その重い屍骸を、引き摺りながら、わーーっと無言で叫んでいた。まったく、あれはなんだったのかと今でも思う。あんな気持ち悪いものを手で触って、ずるずると路肩に引っ張って。