雪が凄い凄い。目の前の風景が白すぎて、すべてに、白く太く、厚みが付き過ぎた。早朝から深夜まで降っていて、今もまだ降っているのだからあたりまえだ。道路も景色も、あまりにも、おおよそ丸くてやわらかくなってしまっている。


gretchen parlatoのライブアルバム、今日届いて、とりあえずDVDだけ観たが、とてつもない洗練度合いに驚く。最近のジャズはもうこんなに高級なのか、、と思って驚く、というか、感動すると同時に、やや引いてしまう。たったの四曲だけど、単に流して聴いてるだけなら、じつに口当たりの良いBGMにもなってしまうようなものでもあるけど、ちゃんと聴くととんでもないクオリティで、まさにハイブロウ、という言葉がふさわしい。ゆったりとしているようで、気の遠くなるほどの速さで刻まれてもいる、このリズムの複雑さ、細かさのわかりがたさ、機微の付く位置の繊細さ、ボイス、呼吸音と打刻音、旋律との兼ね合いの混交、ただひたすら、ため息をついているだけみたいな、言葉にもならないつぶやきが続いているだけみたいな、ある人間の、ふとしたときの、気を許して四肢の力を抜いて、感情の制御もゆるめて、ただだらしない連続した時間のなかで、無心に呻いているような、そんな過去が、そのまま固められたような、音楽とも時間とも名付けられないような中途半端に目留めされたひととき。


…まあ、僕なんかはこういうのを聴くと本来の田舎モノ気質が丸出しになってしまって、ただぼんやりと憧れの眼差しで、うっとりしてボーっと見つめているだけみたいな状態になってしまう。ニューヨークって凄いー。、みたいな、音なのか想像の世界の場なのか、よくわからないものに対して、いまさらのように子供のような憧れの気持ちがフツフツとわいてくる。実際、ジャズは都会の音楽です、みたいな紋切り型の話が、何を言ってるのかというと、要するにこういう音楽を指して言えるような、こういう内容、すなわち、その気も無かったけどたまたまふらっと立ち寄った店で財布から幾らかチャージを支払って適当に飲みながらこの演奏を聴く人間もいれば、月収のかなりの割合にあたる金額を支払ってビール一杯をテーブルに置いたまま一音も聴き逃さないという真剣な態度でステージを凝視し続けている人間もいれば、こうして部屋でライブ盤を聴いて喜んでいる人間もいるという、それらの人々が聴いているのは、もちろんリアルタイムなのか録音物なのかという根本的な違いを一旦カッコに括るならば、とりあえず同じ演奏家の同じステージから放たれた音で、ジャズとはそういう演奏からの、誰にでも均等に、まったく無愛想に虚飾も前口上もなく、ただ降り注ぐ音で、はじめからちゃんと、彼らのすべてに届く要素を備えている、というということで、すなわちそれが都会の音楽、ニューヨークのような場で演奏されるサウンドであり、ここで云う洗練というのは、そういう意味でのことであろう。