僕は好き嫌いがあまりなくて、大体何でも食べられるのだが、最近それが劣等感のような感じに思われてきた。何でも食べる、というのは、やはり、ほめられたものではないのだと思う。最近読んでる塚本邦雄の「異国美味帖」という本の中の西瓜についての文章。西瓜が大嫌いで、匂いだけで食欲を喪失する、ということらしい。

まず第一に西瓜の匂い(臭い)。青臭いというより腥(なまぐさ)い。それも植物のにおいではなくて、一種の金属臭である。場末の旋盤工場の削り屑の臭いに近い。刃物を砥ぎつつある砥石のねとねとした泥の臭いにも似ている。経験はないが、殿様蛙を解剖したらそんな臭いを発するかもしれない。そう思うだけで、一瞬嘔吐を催し、西瓜の紅は流血のイメージしか喚起しない。緑と赤の色の対比・照応が愚劣で、それが嫌悪の一つだ。
(塚本邦雄「異国美味帖」99〜100ページ)


嫌いな食べ物の話をしているだけなのに、なんと鮮やかで、鋭敏で、鋭く切り込んでくるような言葉なのだろうか。こういうのを読むと、特定の食べ物を嫌う、というのが、とてつもなく優雅で批評意識に富んだ、感覚に対して品性のあるまっとうな態度に思えてきて、別段毛嫌いできる食物など思い浮かばない自分に、あらためて大きな欠落感・不足感を感じてしまう。要するに自分の、味わうという感覚の鈍さ、才覚のなさ、その凡庸さをまざまざと思い知らされるという感じなのだ。それにしても、西瓜の臭いから始まって、金属臭→旋盤工場の削り屑→砥石→泥→殿様蛙を解剖…って、このめくるめくようなイメージの連鎖って、ほとんど至福のひとときとなんら変わりないんじゃないのか。


しかし、やはり食べ物も、過去の記憶へ遡行するための手段なのだろう。皆が、絵でも音楽でも文章でも、食事でも旅行でも、過去の記憶に会いに行く。東京は、文化的な都市なのかどうなのか。…文化的な豊かさとは、つまり過去へのアクセス数が大量にあるということなのか。人間が一人一人、クローズした環境内でそれぞれ何かを思い出して陶酔したり、あるいはゲッとなって吐き気を催したりしているのが、レストランなのか。