司馬遼太郎の「飛ぶが如く」を、数年前から毎日、半ページか1ページずつ、ひたすらトイレで読み続けてきて、文庫本全十冊を、途中中断はありながらも、とりあえず読み続けて、今年に入って少し読むペースが上がったのは、さすがに最後に近づいてきて、先月から遂に最終巻となり、先々週くらいから、いよいよ西郷隆盛もおそらくは、たぶん、遅くとも今週中には、死すというか、薩摩軍ぜんたいの、いよいよ滅ぶ瞬間を目の当たりにする予感が、間近の段階になってきており、こうなってくるとさすがにトイレで毎日1ページずつ…みたいなことでは。と思って、一昨日くらいから、トイレ外でもどんどん読んでいて、今日も、朝の通勤電車の中で読み進めていて、でもずーっと読んでいると、わりと途中で飽きるので、飽きるととりあえず別の本ということで、もう一冊は四方田犬彦の「ひと皿の記憶」という、食べ物のことばかり書いたエッセーを読む。人間にとって、恋愛や出世やカネや権力や、食べ物も戦争も、そういうものと同列の、じつに色々と面倒くさいものなので、この本のことではないが、世間にある、食べ物のことを書いたエッセーというのは、すごくいやーな感じのものも多いが、これはこれで、そういうのも、またひとつの嗜好品であって、そんなのばっかり読んでると、次第に、むしろかえって、とことんいやーな感じのものの方が、逆に良くなってきてしまい、もっと、鼻をカーンと突き上げるような、臭ければ臭いほどおいしいみたいな、もう耐えられないような、反吐が出そうな、どうにもたまらない感じが、ここまで来て、今このうえなくいとおしいみたいな、そういう気持ちになってくるもので、だから僕なんかはそういうのは読んでるのはわりと好きで、でもたぶん過去の記憶を辿ってもそうだけど、戦争の話とメシの話を交互に読むというのは、これがまた実に良くて、たぶん、戦争という塊りから零れ落ちた屑、のような話と、食事という塊りから零れ落ちた屑、のような話が、どちらも、良く似ているところがあり、そして面白い。戦争と食事。家とか、刃物とか、祖母とか、病院とか、衣服とか、家具とか…。刃物で死ぬ、それを食う。刃物で死ぬ。それを食う。という、水際の、酒をのむような。水際の、酒をのむような。その繰り返しの感じ。薩摩軍最期の逃避行は、まるで酒をのむ場所を求め続けて彷徨っているようではないか。なかなか、いい場所はないのだ。なかなか、これで良いと、そう簡単に、納得はできないものだ。