美味しいものを食べるのは簡単ではない。美味しかったという思いを言葉であらわすのも簡単ではない。「味をわかる」というか「味によろこびを感じる、官能性をおぼえる」みたいな話になると、これは学べるようなこととは違ってきて、味覚のもたらすよろこびとはおそらく、人類に平等に分け与えられたものではないと考えた方がいいはず。たぶん、生まれつきの感覚が大きく影響するのだろう。


僕の勝手な想像だが、おそらく鼻の機能と舌の機能は、通常考えられてる以上に性能に個人差があって、視力や聴力の差と同じような、味覚力の差もあるのだと思う。そういう条件的な要素と、あとは、「その味と香り」が、その人の過去の記憶に、どれだけ結びついているか?というのが、味覚のもたらすよろこびの感覚なのではないか。


辻静雄なんかは、そういう「個人的過去の記憶」を掘り探すような味覚の旅、という視点とはまったく違う「旅」をした人なのだろうとは思うが。…というか、辻静雄という人物が、ある意味「フランス料理」そのものであり、少なくとも日本における受容の段階において、その歴史と文化を作ってしまった人、とも言えるのだが。


しかし、辻静雄の生涯を思うと、ほとんど明治時代のようだと感じる。徒手空拳でひたすら入手、手当たりしだいに勉強、金を湯水のように使って、猛烈な詰め込み形式で重ねられるだけ体験を重ねる、そして見よう見まねでとにかく形にしてみるという、まさに明治的精神。


たぶん辻静雄という人物は「洗練された人間になりたい。」などとはまったく思ってなかったのだろう。「洗練というものを、どうやったらこちら側に、取り込めるのか?」については真剣に考えたのだろうが。


対象を欲しがるのではなく、対象に同化したがるわけでもなく、対象を手元に引き寄せる方法そのものの追求に没頭する。いちばん最初に、自分の心に生まれた官能的な気持ちを無かったかのように自らしてしまって、急に席を立ったと思ったら、唐突にもインフラの土木作業をし始めてしまうような、それがいわゆる「明治精神」的な感じに思われるのだが。


横光の「旅愁」は30年代のフランスだから明治時代からずいぶん時間の経った時代背景だが、自分がフランスから受けた衝撃をどのように受容したのか、あるいはあらためて日本をどのように捉えるのか、みたいなところを異様に観念的で生硬な言葉で突き詰めていかないといけない、あの感覚、そういう自分に宿った官能にある種の後ろめたさを感じる気持ちがそうさせているのだろうか。(でも「旅愁」正直ちょっと飽きてきた…。)


「形式」というのは、それがなければ生きられないから作られるものだとして、だとすれば、その背後には人間の対象に対する欲望というか、かつて一度は適った夢の甘美さのような記憶が隠されているのだと思うが、それが滲むように、透けるように見えたところで、そのことが「形式」の魅力、というわけではない。形式を必要としない、というのは強いが、それはたぶん非現実的なのだ。ゆえに形式をもって語り、自分の過去の記憶に骨格を与えてあげるしかない。


今まで書いたこととたぶん関係ないけど松浦寿輝「明治の表象空間」はやっぱり買おう。いつ読めるかわからないけど買っておきましょう。レストランには行くけど本は高いから買わないとか言ってたら人間終わりだ。