人体/動き/キャラクター


吉祥寺・百年で、古谷利裕展示「人体/動き/キャラクター」を観る。壁に掛かった紙、キャンバス、板に描かれたの作品群を見ていると、しだいにかたちとして何組かのパターンがみえてくる。線と線の関係がそのままパターンとして認識され、一個の型にされてしまっていて、同等の線的表情と同等の隙間をもつものが一個のキャラクターということになり、それが型抜きによって反復される可能性として作品に展開されている。一見、今までの古谷利裕的な線の質感でありながら、今までは一度もこういう感じではなかったはず。とはいえ古谷さんの2010年頃からのタブローに感じられた、キャンバスに絵の具が置かれる前か、あるいは置かれてから定着するまでのあいだにもう一作業介在させているような独特な絵の具の質感とフリーハンドなイメージの後退が、今回ついに線の仕事にまでおよんだという風にも思えた。


とりあえず、かたちとして「止」という字に似てるやつと「ブロッコリ」みたいなやつが印象的に思ったが、それも単なるパターンの反復ではなく、型抜きされていく中で微妙に形態というか関係を変容させていってる感じがある。しかしどれが最初でこういうプロセスを経て最後にこうなった、みたいな流れが展示としてわかりやすく示されているわけではないので、おそらくそもそもの法則自体が別の法則によって根本的にずらされていってるのかな、という想像が喚起されるという感じ。


店内の奥、レジ脇に掛かっているタブローが「おぉ」と思うくらいの、イカつい抵抗感がある。これらがプロセスの最終過程というような感じにも思わせる。掛かってる場所が絵に正対できず斜めから観るしかないのだけれども、だからなのか余計に作品の凹凸におちる陰影の感じが強調されて見えるようで、かなり迫力のある強い絵肌でこちらに迫ってくる。これはかなり良かった。「絵」だ!という感じで、いつまでも観てしまう。たぶん、かたちの出方がとても気持ちのいい感じがある。


しかし、こうしてあらためて観ていて、このいつも、ふるえたような、蠢動するような、あるいは小刀のような、鶏の手羽中の骨のような、この感じの線、この感じは常にそうだ。臆病そうに震えているような感じでもあり、ずうずうしく居直り寝そべってるような感じでもある。その線そのものが不定な太さを持ち、太くなったり細くなったりが不安定で規則性もなく、末端も細かったり太かったり切れていたり千切れたようだったり、何しろ線そのものの中に何かがある感じである。そしてそのあいだに、いつもそのように空虚な、跳ね返すような白さというか、線と線のあいだのかたちのようなものがある。


観ている人間は常に勝手なことばかり考えてしまうものだなと思いつつ、そして、いずれにせよ暗闇だな、とは思う。何かはあるだろうが、それはたぶん絶対に見えないものだ。それは観ている人間に見えない、伝わらない、わからない、という意味ではなく、もともと相互にわからないという意味である。そこはもう、どうしようもない部分としてある。物理的な限界である。時間と空間が違うし、宇宙が違うのだ。むしろそこで相互にわからなくなっていて、暗闇でありがとう、それが本当のことでした。という感じだ。しかし奥のタブローのように、それが「絵」だ!という感じにもなる。「絵」だ!という感じとは、暗闇が暗闇のまま、そのまま遠くまで届くかもしれない予感のような感じだ。