ゴダールのマリア


ゴダールのマリア」を。マリアの処女懐胎が主題。


ロメールにせよ、ゴダールの本作にせよ、観終わって思わず、途方に暮れてしまうのが、作品の根底に横たわる、性愛的欲望の濃厚さというか、つまりはエロ目線の貪欲さ、執拗さみたいなものに対してだ。色々と、ごちゃごちゃ、相変わらず理屈こねてるけど、結局「もしかして、実を言うと、君たちは、バカなのか…?」と、正面から問いたくなるくらいな、いったいなぜそれほどまでに、この人たちは自らの欲望を、平然と肯定してしまえているのか。そうできてしまって、そのように撮影して、映画としてしまえるのか。これほどまでに、視線としての性愛的なものを、平然と取り扱ってしまえることへの、ものすごく素朴な驚きというものが、まずある。


一昨日に観たロメールから最初に感じさせられたものの、無意識な戸惑いをともなって、そのときは言葉に出来なかったモヤモヤとした何かが、以降のここ数日、何本かの映画を観て、まさか、それはそうなの?そんなことなの?えー、やっぱりそうなんだ!みたいな感じで、事後的に、形になった見えてきたような感じ。


それは逆に、普段の自分が如何に、性愛的なものを生活下の制度内に統治・馴化して生きているのかということでもある。だから急に観てもわからないのだ。男性の欲望に裏打ちされた視線さえも、すでに自分の中で、そのようなものではない。たぶん今より若いときでさえ、すでにそのようなものではなかった。結局は、飼い慣らして、ろ過した水道水のようなものにしている。インフラ処理のように扱うしかない。たぶんそれが男性の仕事なのだ。


まったく…見ることの厳しさである。ミリアム・ルーセルの、何たるうつくしさであろうか。それを、本当にわかっているのか?わかっている、ような気はするのですが…。にもかかわらず…。


観終わって、ああ、また、ゴダールが終わったと思って、その歓びの芯のところに、ぼやっとした疲労が。男性的な欲望的な、濃い視線があって、その対象であるマリーが自らの懐妊に対して身体を晒しつつ深く内省していく、その内面の黒々とした、得体の知れないドロッとした、ちょっと眼をそむけたくなるような何かがあって、幾度目かの満月を見て、あ、っというまに、あっけなく子供が生まれて(笑)、あら、良かったじゃないと思って、しかし俯いて子供をだく女の、ああ、この有無を言わさぬ迫力…と思って、僕なんかはただ、その表面をするすると滑るように観ているだけしかできないかもしれないと、やや自らの限界が予感されたかのような。しかし、もちろんそんな濃厚さと鮮烈なコントラストをなして、人間から離れたかのような景色そのもののような--光が光を見ているかのような--視線ならぬ視線のようなショットがちりばめられて、そこに何か、泣きたくなるような、かなしみがある、というのが、ゴダールなのだと思うけれども。


(観たのはVHSからで、所々、ものすごく大量にボカシが入って作品を汚損させているので、これはいつか、ちゃんとした版で再見したい。)