引用

慟哭を禁じえなかった方も多いでしょう。秘すれば花、などと言いますが、タモリ氏が誠実で理知的で情感豊かであり、<いいとも>という日常の中ではそれが鞘に収められているのだ。という、<公然と秘された事実>が、たった一度だけ霊前で綻び、我々の誰もが、予想していたとはいえ、こんなにも美しかったのかと唖然とするような花の花弁がこぼれ落ちた。ということでしょう。金言、名言の類いとは、特殊で強烈な事例から発せられながらも普遍性を持つ。という性質がありますが、「私もあなたの数多くの作品のひとつです」という台詞は、ほとんど誰も共有することのできない<特殊で強烈な事例>である、赤塚×タモリという関係から発せられながらも、あらゆる総ての現代人に対して、何らかの形で突き刺さる根源的な言葉ではないでしょうか。

菊地成孔「時事ネタ嫌い」「20 私もあなたの数多くの作品のひとつです」

菊地:コルトレーンは典型的な信者体質で、死ぬまでメンターを欲しがっていた。
大谷:そういう自覚がある方はコルトレーンを聴くといいと思いますよ。自覚がなくてもコルトレーンを聴いて「うぉー!」って興奮するひとは、基本的に信者体質なのかなとか。あと学生時分というか、若いひとにはそう時期があるから、ピンとくるかもしれない。真面目にやりたいひとっていうか。モダンの芸術ってさ、どうしても手数を減らすというか、ストイシズムじゃない? あんまりミックスド・メディアにしないっていうか。そういう意味でいうと、コルトレーンはクラシック・カルテットの同じメンツでどんどん進化していくんです。

菊地成孔×大谷能生 ジョン・コルトレーンを語る──パオロ・パリージ『コルトレーン』日本版を読みながら
http://www.ele-king.net/interviews/005221/

引用というものは手や足を裸体から一本ちぎってきて、どうだと見せつけることなのだから、ほとんど無意味にひとしい。この部分だけを外国人が読めば、とほうもなく大時代のハラー・ノヴェル(恐怖小説)と思って眉をしかめることだろう。作者にたいしてひどい失礼を私は犯しているのである。自分の書いた作品が自分のひそかに満足または自負している部分を正確に引用されたとしても私は何がしかの焦燥と抗議をおぼえるにちがいないのである。引用とは、いわば作者にしてみれば、ぬきうち検査の批評、無作為抽出(ランダム・サンプリング)、夜あけの急襲、白昼の待伏せといったようなものである。やめろ、と強くいわれたら、一言もなくやめたい。しかし、およそ作品を批評するということそのものが、厳密にいえば夜討ち朝駈けみたいなところがあるのだから、これは、もう……


開高健「紙の中の戦争」深沢七郎笛吹川』の場合