脱水とテクノ


子供の頃、はじめて脱水した洗濯物に触れて、たいへん驚いたのを今でもよくおぼえている。さっきまで水に浸かっていたはずのものが、やや湿ってるだけくらいなまでに水分が飛び、モノによってはほとんど乾いていると言っても良い状態だったので、これはすごい、信じられない!と驚愕した。ここまで乾いてるなら、なぜこのあと物干しに干さなければいけないのか、本気で疑問に感じた。遠心力で、水分を弾き飛ばすとは、なんたることだろうか。布の隙間に入った水の粒が、遠心力に負けて次々と外側へ吹き飛ばされていく。その結果、布は、ある程度乾くのである。完全にではないが、だいたい乾く。化学繊維とかの肌理の細かい質の衣類なら、触ってみて濡れているかどうか判然としないくらいには、水分を除外できてしまうのだ。ほとんど奇跡か魔法みたいだ、これをはじめて考えた人間は誰なの?とんでもない大発明じゃないか!と思った。雑巾を硬く絞っても、これほどまでには水気を取り除けない。それなら絞るのではなく振り回せばいいだなんて、遠心力で水分を飛ばすだなんて、よく思いついたものだ。そんな発想、ふつう無理、そんなの、馬鹿じゃないかと思うが、現実の目の前でその結果が、ここに事実として存在しているのだ。人間が知恵をはぐくむ力は侮れないと思った。


これを書きながらぼんやりと思い出したが、子供の頃、同じくらいに驚かされた発明といえば、やはりビデオゲームという事になるだろう。ただしそこで記憶に残っているのは、ファミリーコンピュータ以前のまだ原始的と言っても良いようなブロック崩しゲームとかテニスゲームとかの家庭用テレビゲーム機のことである。何に驚いたのかと言うと、まずテレビに繋ぐというところだ。裏側に配線して、ゲーム機の電源をオンにすると、いきなりテレビ画面にゲーム映像を映ったときの衝撃はたいへんなものだった。あれはある意味、神聖にして侵すべからずな領域に対して、ついに第一歩を踏み出してしまった感があった。そして、テレビゲームをしながら過ごす時間がはじまって、そのときの、あの独特の漫然とした感じ、まったく取りつく島のない、よるべない、どこまでも果てしなく続いてしまう、見も蓋もなく素で投げ出されてしまった何か、たぶん退屈という言葉ではどこか言い足りない、もっと異なる何かを含んだ新しい退屈さというか、新しい生活というか、とにかく、その時間。今まで一度も経験したことのない、そんな時間の流れ方、まさに初体験と呼びたいような鮮烈な体験であったように思う。ブロック崩しゲームなら、ボールがラケットに当たる音と、ボールがブロックに当たる音以外は、完全な静寂である。それが延々、何時間でも続く。あれがテクノ初体験です、と言っても間違いじゃないかもしれない。テクノ、そうだあれはつまり、テクノだ。始まりも終わりも、手元のスイッチ操作だけの問題で、だからそこには果てがない。そうなのか、果ての無いループ感、エンドレスなシークエンスパターンというのは、じつは受動的な内容ではなく、手元にON/OFFのスイッチがある能動的な内容において、はじめて出現するものだったのか。自分が操作権限を握っている状況において、はじめて制御不能に感じられるくらいの無限ループ的時間性が実現するっていうのは、なんかすごい逆説的だ。でも、それってすごい重要かもしれない。そこではじめて、作品の概念も変えられたのだ。生まれてはじめて自分で作って、すると、これほどまでに果てしなくなる、という事実を知ったのだ。