装飾


つまり内実を覆うこと、隠すこと、言い換えれば、いかにも内実が、実際以上にありそうな感じに見せること。


いや、
ほんとうは無いけど、あるように見せる、のでもない。
ほんとうはあるけど、無いように見せる、のでもない。
そのどちらでもないのだ。


ほんとうというもの、そのものがないのに、あるかも乃至ないかも、の振舞い(?)だけがある。


だから今ではもう、隠す、現す、の二つを説明してあげないとわからなくなってしまった。


これは昔、ここに「本当はどうだった」の、正体に対する振舞い方の一つだったのです。


この手の動かし方とか、身体の位置がね。


それが意味か?


いや、そう説明されただけだ。


そう思え、ということらしいけど、それはさすがに無理だ。


昔は、すごくたくさんの意味が錯綜して、それらが全部透けてみえるようになっていた。すごくきちんと計算の利いた、ある意味、きわめて洗練されたやり方だったのだ。


スカスカな、裏側には、じつは何もないかもしれないような、薄っぺらな、その場で取り繕ったような感じをあらわす、振舞う主体の自己表現的なものだった。


その儚さ、可憐さをあらわすものでもあったらしい。


目の前のこれが、そうだと言うのだ。この一連の動きが。


絵の具の物質性=遮蔽性


しかし、絵の具というのも、謎の物質だよね。これは一体、何に使ったんだろう?昔は。


もともとあった光を、描くことでわざわざ潰すことになるよね。


だから絵の具の置かれていない箇所だけが光を発しているような、つまり不透明な画面の所々で、裏側からの光が透けて見えてるような感じを目指したんじゃないの?


それは現実を阻み隠すこと。現実に対する諦念の表明だったのかもしれないね。