きょうの料理


今後の食事は、どうするのか。


今の、かなり節制気味な摂取量を、今後も続けるのか。


まじか。


まあ、、いいけど。


三合以上、飲酒する日を週に三日以内とする。そして、一日の飲酒量一合以下あるいはまったく飲酒しない日を週に三日程度。


そして「お茶の日」を制定する。上記三日のうちから割り当てる。


腕に装着している活動量計測機が、前提として、あまり正確にカロリー消費を検知していない、と思われる。検知の根拠がよくわからない。あくまでも参考というか、その嗜好性および傾向性を考慮した上で使うしかないかなと感じている。


30分歩く
30分泳ぐ
この二つを、ほぼ同等評価、か、泳ぐ方を若干高評価される。もっと高評価すべきではないかと感じるが。

しかし


60分歩いただけでは、前者に劣ることが最近判明した。なぜだ。そのロジックが謎。


とりあえず、いまのツールで活動量計測を継続するなら、水泳はするべき。


でも深夜残業発生日などの活動量を、いかに確保するのか。これはこれで考える。


ロギングツールを、もっと高スペックな製品に替えるか?という考えもある。misfit shineは、水泳で泳いだ距離を記録するにはすごく便利なので、記録にだけ使って、運動量計測は別の計り方も検討してもいいかも。


結局、何を評価するのか?は、活動量ツールの仕組みに因るみたいだ。というか、体重計だってそうだ。横浜のジムに設置してあるやつと地元のジムに設置してあるやつと自宅のやつと、合計三つの体重計で体重を計ってることになるが、横浜と地元は同じ系列のジムなのに、体重計は自宅用よりももっと大きくて性能も同等なのだろうけれども、それぞれ別メーカーの別機種が設置されている。ジムのやつも自宅のやつも体脂肪からBMIまで表示するやつだが、計ると、それぞれかなり体重計自体の個体差がある、としか思えない。


自分の体重が日々微量で前後するのは当然だが、定点観測してると基準自体が違うのがわかる。横浜はちょっと軽めに表示して、地元と自宅のはちょっと重めに表示してる感じだ。増減をグラフ化すると折れ線の様子は一緒なので、初期セッティングの差、というか初期状態での差異かもしれない。結局どれが正確なのかはわからないので、三つの数値から浮かび上がるぼやっとした中間的な値を、大体の値と見なしている。まあ、正確な値よりも推移の方を気にするので、値それ自体はどうでもいい。絶対に越えなければいけない目標ラインがあるわけでもないので。


ただし、運動量計測だと、さすがに一日あたりの目標量はなるべく正確に設定できた方がいいような気はする。それにやはり、かなりの心拍数向上をともなった運動とかなら、それなりにカロリー消費が行われたものと見なしてほしいように思う。せめて有酸素的なトライアルか無酸素的かの評価だけでもやってほしいのだが、そういうのって難しいのか?睡眠時間の計測もそうだ。浅い/深いだけでは分析対象としてはやや物足りない気がする。


あとは、摂取量のロギングだが、これは当初からとくにやろうと思ってなかったし、今も乗り気ではないし、ツールに期待もしてない。要するに食べ物の写真を撮る→DBに問い合せてカロリー等のデータを取得→個人データを必要に応じて編集、という流れなのかと思うが、けっこう面倒くさい。まあ始めたらそれなりに面白いかもしれないが、正確な入力は自動ではほぼ無理じゃないの?という気がしてならない。でもinとout双方やるのが一番だというのはわかる。やってもいいかな、という気も、書きながら考えてたら、今急にしてきた。良いツールがあれば。それ次第というところだ。


こんなことを続けていて、何がしたいのか?どこへ向かおうとしているのか、について、最近よく考えている。べつに、すばらしいボディを手に入れたいわけでもないし、何をどうしたいわけでもない。ただ、なんとなく、乗りかかった船の勢いが、まだ続いているだけだ。でも、去年までのように、あればあっただけ、欲望のままに飲み食いする毎日を続けることは、どうやらできないみたいだということはわかったので、だからそれへの対策だろうな、とは思う。


しかし、その対策をして、だから何だというのか。それで、健康状態を維持して、それが一体何になるのか。長生きが、できるというのか。仮にそうだとして、長生きすることのどこに価値を置くのか。


80歳や90歳まで生きるのは当たり前の世の中になってきた。だからそのへんまで生きる、生きたい、ということなのかな。いや、まじか。そこまでするか?60歳だと短い、70歳でも、まだ若いかね。そうなのかな。どうなの?


人って、年齢を生きるわけではないよね。むしろ、飲みたいだけ飲んで食いたいだけ食ってもいいのだろうね。


Eさんが言ってた言葉。「そういえばさあ、去年の秋頃、なんとなく背中のへんが鈍く痛くなったことがあって、今はぜんぜん治っちゃったけども、あれってもし今も同じように飲み食いしてたら、きっと今も痛いだろうなあと思う。何が痛かったのか、よくわからないけど。」


「あのままもう二年も三年も飲んだら、そのまま何かの病気になるのかもしれない。」


檀一雄の晩年、うろおぼえで、ちょっと嘘というあk思い違いもあるかもしれないけれども、たしか最期は肝臓がやばくて、雑誌の撮影のために記者の前でワイン飲んで笑ってポーズして、記者が帰ったら、身体が痛くて立ってられないくらいで、…だったらしい。それと同じようになったかもしれないな。自分の肝臓をフォアグラにしちゃって。


でも、仮に自分もそうなったとして、あえて不遜を承知で言えば、それって不幸なのかな?とも思う。それで、死んでも、ぜんぜんいいじゃんと。


じゃあ、どんな死に方なら、満足なのか?老衰で往生なら最高なのか?それって本当なの?


むしろ、食べて飲んで死ぬなら、いいよね。でも最初にそれがわかって飲み食いできるかと言うと、それは難しいっていう話なのだろうかね。


まあ、いいか。