花鳥画


どこへ行くんだっけ?板橋って言ってなかったっけ?そうだっけ、じゃあ行こうか。と言って家を出る。巣鴨から都営三田線西高島平駅へ。あいかわらず何もない駅前から歩道橋を渡って、高速ふもとの道を歩いて、板橋区立美術館へ。ところで、何の展示をやってるんだっけ?何だっけ?入口まで来てわかった。館蔵品展 江戸の花鳥画 - 狩野派から民間画壇まで。入場無料だった。


だいたい草花というのは、あるいは鳥もそうかもしれないが、実際に自然環境の中で見るときでも、それらはいきなり視界にふとあらわれたり、遠くと近くの合間を埋めるように存在しているのを見たり、あらわれかたそのものに特徴があるというか、あらわれかたそのものを主として見るのがほとんどで、そういう意味では花鳥画の各モチーフのあらわれかたというのは普段散歩しながら草花をふと見るときの感覚にとても近く出来ていると思う。座敷に座って、屏風画に囲まれているときでも、おそらくそう感じるような気がする。


最初の展示室にあった大きめの金屏風に萩とススキの、如何にも琳派な雰囲気の屏風絵など、あれは琳派ではなくて狩野派らしいが、しかし描かれ方はまさに琳派的なのだが、琳派というとあの様式っぽいやつかと思われそうだが、そうかもしれないが、自分は元々そこにあまり様式とか枠を感じないというか、観ているとこれはこれで実直に見て描いた結果ではないかと感じてしまう。ススキは円弧の上半分だけみたいな形態が何度も何度もリフレインして、それが風にそよぐススキの形象的な表現だというより、ススキそのものをまともに見ていたらたしかにこうなると思う。


花鳥画は西洋の風景画とはかなり違っていて、もっと連作的というか、自然の景色を左右いくつかのブロックにわけて、それぞれで発生している出来事を、各々はほぼ一緒なのにどれ一つとして同一ではない。そのことを小分けにして感じようとするというか、小分けというよりも、まず目に飛び込んできたそれを観て、色々と思って、それはそれで、次に別のことに気を取られてしまっても良い。すなわちそこで一旦絵画を観ることが、途切れてしまっていい。しかし、ふたたび視界に絵が戻ってきたとき、今度はまた別のものを観ることになる。そのときはすでに、以前の経験とは切れてしまっているが、だからと言ってまったく別の経験というわけでもない。最初から最後までその一枚を、という単位あたりの体験ではなくて、もう少し大雑把な括りで、時間も区切るというよりは任意に重ねた結果として量って、その記憶の堆積として、その絵の印象が決まるようになる。そのように観た。