怪物


水木しげるの「劇画ヒットラー」を読んでいて、今ようやくドイツ首相になって内閣を組閣したあたり。これを読んでヒットラーという人物を近くに感じられるかと言ったらそれは無理で、印象としては幕末とか明治維新の志士の武勇伝みたいな感じに近く、まあ今更ながら、今の感覚ではありえないくらい当事は血なまぐさくて人間も武闘的だった。もちろん歴史的な緒力の動きのダイナミズムを知る意味というか面白さはあり、とくにこの後はチャーチルの「第二次世界大戦」と並行して読むとさらにいい感じ。しかし人間一人を見ても、それがヒットラーだとしても単にパラノイアックにひたすら邁進するばかりで、こんなハリボテのような人物がいるのかと思うが、いや、いるんだよと言われたらそれまでだ。いや、第一お前は、自分がハリボテでないとでも思っているのか?と問い返されたら何も言えないという感じだ。べつに難しくもなんともないでしょ、ある人間が、目的に向かって進んだ、それも人並みに虚無になったり逆恨みしたり激怒したり悲しみに暮れたりしながら、、というだけでそれ以上でも以下でもないでしょと言われたら、そうですよねと答えるよりほかない。結局人物一人に注目しても何もわからず、剥いても剥いても中身はなく、砂を噛む思いだけを味わう。でもやはり、ナチというのは第一次大戦ベルサイユ条約が生み出してしまった怪物、という感じはする。何かからゴジラが生まれたというのはフィクションだが、ゴジラを遥かに凌駕するほどの怪物がかつて生まれたというのは事実だ。怪物というのは現実に存在し得るし、これからも生まれる可能性はある。これからの人類が有史上もっとも聡明でもっとも適切な政治的調停を為しうるなら話は別だが。いや、何かから怪物が生まれるという因果そのものが現実なのか。ゴジラはひとつのかたちを与えられた現実なのか。