夏の夜の十時半


デュラス「夏の夜の十時半」を読了。まさに王道デュラス・スタイルと言える。三角関係的な恋愛のややこしい感じを、事態の一般的解決とかに向かわずに、そのまま無言で別の化学変化を試みようとするような感じ。


という話の骨子よりも、やはりとにかく文体が、というか語りの独特さがすごい。訳者解説にもあったが、三人称なのにそう思えない。事実の描写なのか主人公の妄想の描写なのか判然としない。というか、わざとそれを曖昧に書いてある。終盤になると、登場人物それぞれの行為が、誰が誰のことなのかもちょっとわかり辛くなるようなところさえある。


デュラスの場合どの作品でもある程度共通するが、やはり映画的というのか、映画のシナリオ的な感じがする。一文一文で、かなり的確に状態を伝える。雨が降っている、誰かは何をしている、向かいの誰かは眠っている、ボーイにコーヒーを注文する、誰かは目を覚まして今は海の方を見ているようだ、雨がまた降り出した、みたいな、簡素なイメージの積み重ねだ。しかしそれが強力に的確なので、ぐいぐいと時間を運ぶ。なぜか同じ意味合いを複数回くりかえしたり、ほぼ同じ一行が再びあらわれたり、このあたりフランス語に特有なのかデュラス的な文体に特有なのかは、よくわからないが、その効果みたいなものは、伝わってくるような気がするというか、その場所と、天候と、温度や湿度、亭主と女友達の浮気の気配、傍らにいる娘の感じ、レストランの喧騒、ボーイとのやり取り、酒への欲望、それらの、描かれた要素すべてが説明に堕さずにそれ同士で渾然となって、それが小説そのものの進行になっている。その感覚、ものの動いて進む感触が、動くものを観ている楽しさに近いような、そのぶっきらぼうとそっけなさで、気持ちよくて最後まで読んでしまうのがデュラスだ。「夏の暑さや雷雨のスペインの感じすごくいいー」というと馬鹿みたいだが、でも最良の意味でまさにそういうことだと思う。その感じが言葉を道具にして説明されているわけではなくて、連なる小説の言葉がそのまま「その感じ」なのだ。そこが凄い。かつて映画になったので、それは観るチャンスがあるのは嬉しい。