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「アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―」(http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/2821/)最近の自分にとっては身につまされるような部分があり、興味深く読んだ。(ちなみに本論で取り上げられている伊藤計劃「ハーモニー」も國分功一郎「中動態の世界」も未読なのだが…。)


今までは「病気ではなければ健康」だった。ある意味今もそうだけれども、でも私は、私の健康状態を私自身の力で知ることはできなくて、それは大抵の場合、健康診断の結果だとか病院の診察結果とかの形で知らされる。私の内側での出来事なのに、その説明は外側にある。そもそもの健康の概念とか、それを維持するための考え方とか、ぼんやりとした行動指針のようなものさえ存在している。私の内側の見えない何かに対して、あたかも既知の問題であるかのごとく外部に色々な情報があって、これはこういうものだからそう認識してこのようにしろと規定されて示されている。


その示された内容に従ったとして、納得できるフィードバックが内部から返ってくるならいいけど、実際はそうでもない。健康な状態が維持されているというのは、別になんでもない状態が維持されていることに等しく、したがってフィードバック皆無なのがほとんどだ。酒やタバコなどの嗜好品などは、あれは快楽的だが、健康には良くないのだとの教えも示されているだろうが、その信憑性を、私の身体の内側から実感することはできない。私の身体は常に、それが美味いとしか(あるいは軽い不調とぼんやりとした不安のかたちでしか)フィードバックを返さない。


ウェアラブル装置の発達が、それを改善してくれたとも思えない。僕は一年半前から毎日ひたすら体重計に乗っている。体重、体脂肪、水分量、骨、BMIBMR、筋肉量の値が日々スマホに記録されていくが、この増減の推移を見続けることで、むしろますます「健康」の不可解さは増大した。前日までの自分の行動と現在の体重や脂質との相関関係はまったく見えない。いや、それがわかりやすく相関してくれるはずなどないこと自体はよくわかっているのだが、だからこそ、それにしてもなぜ!?という思いに駆られる。


後半、このブラックボックスが解かれ、ゲームとしてのステータスやスコア、ルールの明確化がなされ、「健康の脱魔術化」が達成されて、ウェアラブルなどの更なる発達などで完全な「身体へのアクセス性、操作性」を人々が手に入れたとして、それで「身体の主権を取り戻す」ことができたとして、しかしその状態においても人は自らの自由意志による健康管理を実現できないだろうと本論は説く。


「かくして身体の主権を回復した市民は、各自ほどほどのところで「健康」をプレイするようになる…めでたし、めでたし。」

とは行かず

「健康」からの逸脱を指摘されることを恐れるあまり、おちおち「食べる」こともできなくなってしまうか、逆にその逸脱にまったく注意を払わず生活し、病を放置するかのどちらかです。」
と言うのだ。


つまり「健康」つまり自らの生命を効率的に運用するための最適解を見つける、そういうゲームへのモチベーション維持はきわめて難しい。たしかにそれはそうだろう。そもそも完全な「身体へのアクセス性、操作性」を人々が手に入れた状態を想像したら、そのとき自分の内部値の制限範囲内で嗜好品をたしなみ、ヤバそうならやめる。酒も完璧に正確な適量範囲内でのみ呑む。これにより最大限効率的な、まさに死ぬ直前まではなるべく健康な身体の自己管理をできる…などと想像する以前に、もはやその時点で、おそらくあなたの寿命は大体あと○○○秒くらいです。とかいう数値が、あたかもバッテリー残量のごとくカウントダウンされている状態のような気がするのだが…。つまりほんの些細な兆候からでも身体組織の耐用年数が予測できるので、生きている人間すべての余命が計算できていて、各人はそれをなるべく引き延ばすための人生、つまり人生を長引かせるためだけに生きる人生ということになってしまいそうな気がするのだが…。そこまで全部知っていながら、自由意志のもとに正気で幸せに、幸せを目指しつつ生きられる人間は稀だろう。


したがって「自由と強制を絶妙にブレンドし、可能な限り「健康」的でありながらその営みの主導権を握ってもいるような、そういう行為生成のありかたを模索しなければならない」という事になり「外部環境によって行為をパターン化してしまう」「食べる」ことの「オートプレイ化」が提示される。オートプレイのパターンが生成されるプロセスを問い、オートプレイのパターンをメンテナンスできるマニュアル性を探るという事になる。すなわち、ほどほどに意志を捨てるというか、ほどほどに縛られるというか、それでこそ精神衛生上健やかでいられるのだと、これも、個人的実感レベルですごくわかる気がする。僕など例えば連休による会社の休みが続くと(マニュアルプレイ時間が長いと)やや不安感をおぼえたりもするとか、、そういう話とも違うかもしれないが、わかる気がする。…というかけっこう昔から考えていることとして、人間の「オートプレイ」性、それ自体を捉えたいみたいな思いがあって、自由意志で動くならそれはそれで良くて、しかし自動操縦(オートパイロット)状態ならまったく意志を欠いた状態かというとそうではなくて、自動操縦(オートパイロット)状態というのはリアルタイムでリプレイを見ている状態としてあって、現在にアクセスしていながら、しばしばその現在を一旦終わった過去として認識している、その行き来というか、結局この私は私という乗り物に乗っている、私という見晴台に乗っている、という感覚、そう言ってしまうと全くつまらないというか、単にメタ身体みたいな感じだが、そうではないリモートの感覚…自由でありながら一旦止まっているというか、映画のコマとコマの間というか、とにかく今と終わってることとの混淆というのか…そのあたりのニュアンスをぼやっと、何かの物語的なかたちにまとめたいという個人的な思いがあり、そんな自分にとってこの文章はかなり刺激的で、終盤の「治療」とか「アートとしての病」として述べられている箇所の手前で、人間の強制状態のより詳細な様相というか「オートプレイ」性の内実をもっと探りたい、というような気持ちにさせる。