たとえば「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」に出てくる劇中映画で、ナチス将官たちが作戦会議しているところに武装したディカプリオがこっそりと忍び込んで、会議室の上からいっせいに火炎放射器の炎を浴びせて、将官全員を火だるまの皆殺しにするシーン。こういう場面は世界中の様々な映画において、何度となく撮られてきただろう。ナチスの連中は殺したってかまわないのだ。できるだけ派手に盛大にやって良いことになっている。(そして火炎放射はラストで再び…。)

「ダーク・ナイト」のジョーカーは、使用する武器としていわゆる"チープな"すなわち銃とか刃物とかガソリンとか火薬などを好む。資金は潤沢に持っているはずなので、その気になれば破壊力に富んだ最新兵器だって容易に入手も可能だろうが、それはしない。それどころか報酬として受け取った巨大倉庫の天井にまで届きそうなほど積みあがった札束の山に火をつけ、依頼者の目の前で燃やしたりもする。まるで二十世紀の戦争のような、そんな貧者の武器に可能な汚濁したダメージへの拘りを、ジョーカーからは感じる。また交換条件と引換えの連続殺害予告や人質のビデオ映像公開など昨今のテロルを彷彿とさせる手口も多い。

ではバットマンがどうかと言えば、彼は世界最高峰の技術によって作られた最新のシステムやガジェットや自動車やバイクを利用する。テクノロジーの実態が素人目にはわからないような、ほとんど謎ツールばかりに身を固めている。しかしそれでいながら、バットマンは殺生をしないために、重火器も刃物も使わず、敵と渡り合う場合は素手で格闘するか、あるいは主にワイヤーとかを使った「罠」を仕掛けることで相手の動きを奪い身動きできなくさせて、それによって攻防に一応の決着をつける。なにしろ生身の人体に致命傷を与えることだけは周到に回避され、その法則はジョーカーにすら適用される。ほとんどそのために荒唐無稽とも言えるような高度なテクノロジーが駆使されているようにも思われる。そのために必死で神経使って技術施策してるせいかはわからないが、ジョーカー一味にくらべてバットマンの表情はいつも沈鬱で重苦しくうつむき気味だ。

「ブラック・クランズマン」に登場するKKKの一味は上は最高幹部から下はチンピラまでいて、KKKとは言えさすがに上の人たちは世間を相手に取りつくろうのは上手くて人並みの社会常識は持ち合わせていて、下の連中も一応はそうだけど、でもやはりどこか思慮が足りず浅はかなので爆弾によるテロを敢行しようと企んで、作戦は失敗して自分らが死に至ることになる。この映画を観て僕ははじめて知ったような気がしたのは、そうかKKKナチスと同じ扱いでかまわないのかということだ。もしバットマンなら、床に仕掛けたワイヤーで引っ張り上げて三人まとめて逆さまの宙吊り状態にするとか、そんな懲らしめ方で終わるところだろうけど、そんな程度では済まなかった。つまり全員を火だるまにして皆殺しにして、派手に盛大にやって良かったのか。たしかにナチスKKKも人間の屑だからな。しかしそう気づいたばかりなので、今はまだ慣れてない感じがある。