悪の映画2題(+1)

Amazon Prime Videoでノーラン「ダーク・ナイト」を観る。長過ぎじゃないか。「まだあるのか…」と途中で妻と顔を見合わせたほどだ。ジョーカーが代表する「悪」の、強盗やカーチェイスや銃撃戦や爆破などのきわめて原始的ながら派手で活き活きとしたアクションと、バットマンが代表する「善」の、CG技術が駆使された暗闇に冷たく鈍い光沢を放つ未来型最新メカニックやシステムの描写が対比的に描かれる。楽しげでやることなすこと思いのままといった感じで、登場人物としての魅力全開なジョーカーに比して、始終沈鬱な表情で苦渋の選択や決断を迫られるばかりなのがバットマン陣営であるが、より楽しく活き活きと健やかに自分の人生を自分のやりたいように謳歌しているのがどちらなのかは誰の目にも明らかという感じで、とはいえ潤沢な資金と最新技術に支えられたバットマン氏の超セレブ生活もけして悪くはないわけで、正義や社会秩序維持のため、義務感というかノブレス・オブリージュ的精神をひたすら発揮する点は立派ながら、何しろ彼らにとってゴッサム市の維持存続(税収)が自分らの存在条件でもあるのだから、反社会勢力と必死に闘うのは当然といえば当然とも言える。ともあれそんな攻防に挟まれたかたちの警察、銀行、法務関連をはじめとするゴッサム市民や組織人達は自分の財布が軽くならないように組織内でひたすら闇取引やスパイ行為に明け暮れるばかりというか、そういった社会的立場の差異から生じる汚染や対立が、典型的トリックスターのジョーカーと時折交差するまた別の「悪」として描かれてもいる(ジョーカーはそんな人々の悪を上手く利用するのだが、それで彼らの悪のちっぽけさを侮蔑し戒めているかのようにも見える)。しかしジョーカーという人物の、善への威嚇・挑発として、AとBどちらかを選べ的な正義と選択問題にやけに拘るのはどうなのか、それが高潔な精神を捨て悪に堕した半顔の地方検事を生み出すのだが、この悪役がイマイチつまらないし、ジョーカーも不適な態度や銃撃戦シーンなどなかなかカッコ良くて雰囲気はかなり魅力的ながら、口にするセリフも毎度深淵っぽいけどさほどでもないし所々で不足を感じるというか、せめてもっとドスの効いた妖しい黒光りを期待したくなってしまう。

続けてスパイク・リー「ブラック・クランズマン」を観る。スパイク・リーを観るのもじつに久しぶりだが、白人が電話の声役の黒人とタッグを組んでKKKのアジトを潜入操作するという、スパイ・刑事モノのスリリングな娯楽作品に振った感じで、黒人が白人の口真似してのべつまくなしヘイトを喚いて敵をあざむくとか、執拗に疑われて身元がバレそうでヒヤヒヤするとか、かなり面白いとは思うのだが、最後の各集会の場面が交互に出て来て、そんなさなかに悪い連中がまとめて墓穴掘る結果まで観て、あまりにあっけらかんとした展開だったので、驚くというか最後はやや引いてしまうところもないではなかった。本作の悪役達はずいぶん憎たらしくて卑劣で、そのぶん観る者にとっては与しやすく物語の最後まで来ればある意味こちらの溜飲も下がるのだが、この軽快にひらきなおった感じがどうにも後味悪くて、たしかにこれも"アリ"だし、面白く楽しめるし、それこそがスパイク・リーの仕事なのだろうとは思う。まして昨今の世界的状況を鑑みれば、なおさらそこに喫緊の必然性というか、必要なのはまずなるべく広範囲に届く即効の効果であるという意志に説得力が宿るのもわかる、のだが…。

続けてウッディ・アレンミッドナイト・イン・パリ」を観る。は?なんでよ、と言う感じだが、妻が観たいと言うので仕方がない。僕はもうこの映画はなぜかこれまで何度も観たのでさすがにもう観なくていいやと思ったけど、ごはん食べながら最後まで観てしまった。まずきっちり90分で終わるところはいい。美術館の学芸員ピカソのモデルを務めていたマリオン・コティヤール、中盤と最後に登場する古道具屋の店番の娘…、この現実にはまるで反りの合わない連中もいるけど、若くて魅力的な女性もいるんだから、絶望の手前でどうにか明るく元気にやっていけるかもしれないな、そうだなあ、まあ、がんばろうじゃないか、ということでございましょうか。ことに古道具屋の娘、けして美人ではないけど目を離せなくなるような魅力…。畳み掛けてくるようなラストの笑顔。主人公に自分自身そっくりな芝居をさせ、ああいう女優をラストシーンの相手役に起用してしまうキャスティングこそがウッディ・アレンの凄み(?)であろう。(あの女優が他のどんな映画に出てるのか、ほとんど情報がない…。)