Ol' Man River

Prime Videoでジョージ・シドニー「ショウ・ボート」(1951年)を観る。ミシシッピ川の船着場、巨大な外輪が白い水柱をあげて、ゆっくりと船が離れていく。機関士の黒人が朗々とうたう。

この映画を観たくなった理由は、劇中で歌われる"Ol'Man River"を聴きたかった。川を進む船の映像を観たかった。十九世紀末のアメリカ南部を舞台に、人々が歌ってるのを観たかった。というあたりだ。(コンラッド「闇の奥」の序盤を読んでいて、テムズ河の空気をずっと感じていたからでもある。)

古典的というか王道のストーリー。しかし"Ol'Man River"あるいは"Can't Help Lovin' Dat Man"を聴く映画、ということだろう。"Ol'Man River"であらわされる「川」を、今の自分はどうしても幸田文的な川に連想をつなげたくなる。労働の疲労、不条理、怒り、悲しみの全てを丸ごとのみ込んで、なおも悠々を流れるミシシッピ川に対して、幸田文的な川はまた違った様相を呈す。彼女の川は、ただ流れ、とどまらない。

下町の女には貴賤さまざまに、さらさら流れるものがある。それは人物の厚さや知識の深さとは全く別なもので、ゆく水の何にとどまる海苔の味というべき香ばしいものであった。さらりと受けさらりと流す、鋭利な思考と敏活な才智は底深く隠されて、流れをはばむことは万ない。流れることは澄むことであり、透明には安全感があった。下町女のとどこおりなき心を人が蓮葉とも見、冷酷とも見るのは自由だが、流れ去るを見送るほど哀愁深きはない。山の手にくらべて下町が侮り難い面積をもっているのは、彼女等の浅く澄む心、ゆく水にとどまる味に負うとさえ私は感じ入った。 (「姦声」)