踊る脚

ジャン・ルノワールフレンチ・カンカン」(1954年)を観る。クライマックスの集団舞踏シーンがあまりにも圧倒的で、矢も楯もたまらず、ぼろぼろと泣けてしまう。

フレッド&ジンジャーの作品でもそうだが、ダンスというのはもともと性的なイメージと親和的だ。下半身、腰の動き、身をよじり、のけ反らせ、伸縮をくりかえし、腕も脚も大忙しなのに、表情は笑顔、あるいは苦悶と歓喜、そんな幸福な愉悦のなかに浸っているかのようなダンサーたち。身体が回転して、服がまくれ上がるとか、脚が太ももまであらわになるとか、大きく開脚して股間や臀部まで誇示されるとか、女性の性的アピール力で男性を挑発することを目的としているかのようでもある。ただし当然、そこには高度な洗練と技術を実現させるための肉体的修練の痕跡がある。ひとつのことを再現するために千の手間をかけるような倒錯がある。

その一方で技術とか洗練とは無縁のダンスもある。たしか野田務の「ブラック・マシン・ミュージック」に書いてあったと思うのだけど(でパラパラと読み返してみたのだが該当の箇所がまったく見つからないので勘違いかもしれないのだが)、デトロイトの黒人たちが集う地下のクラブでは、太いキックがフロアを振動させるなか、ぎっしりとひしめき合う男女がビートに合わせて互いの腰と腰を力まかせにぶつけ合いながら、汗だくの身体を密着させてはげしく踊っている。人々の蒸された汗と息と情欲にむせかえるような、ほとんど集団乱交の直前に近いような、そのような欲望が朦々と渦巻いているのだろうが、しかしだとしてもそれは、あくまでもダンスだ。とはいえここでは男女間に生成する欲望が、まったく洗練されないまま、ほとんど子供じみた思い付きか自らの欲望を隠すバレバレな誤魔化しのように、素朴で単純なかたちとしてあらわれているのだろう。

そしてフレンチ・カンカンのクライマックス。踊り子たちがほとんど動物というか非・人間(天使?)のように、舞台袖から、あるいは客席の壁紙を切り裂いて、何もない空間に蹴りを喰らわすかの如く高々と脚を振り上げてあちらこちらから現れ出てきて、まるで何百羽ものヒヨドリの編隊を組んでアメーバのように空を移動する黒い巨大な塊のような、おおよそ個人とも集団ともわからないすさまじい隊列を形成して踊り狂う。彼女たちの脚は、上下左右、自由自在な方向に回転する。ふわふわの付いたスカートは惜しげもなく捲られて、自らを支える役目を放棄したかのごとく高々と持ち上げられた脚の先が、天井を向いて、観衆の面前に大きく開陳された彼女のスカートの内側は幾重にも重なった真っ白な下履きにつつまれていて、まるで巨大な花のかたまりがぼこぼこと連なって浮かんでいて、それを無数の黒いストッキングにつつまれた脚が何本もステッキのようにくるくると振り回されているかのようだ。

ロートレックが描いたジャンヌ・アヴリルの脚は、身体に対していったいどのように接続されているのか訝しく思うほどに妙な方向を向いて虚空へ突き上げられているし、ドガが描いた踊り子にも、足首の向きが身体に対して明らかに違和感を感じさせるなど、一部にそのような表現が見られる。身体に対して、捻じれたような、まるで切り離されて独立して存在しているかのような脚。これらは画家のうちにあるそのようなフェティシズムの表現なのかと、かつて僕は想像したこともあるのだが、それはたぶん違う。それは踊る脚というモティーフの表現として必然的なのだ。ダンスで振り回される女性の脚は、脚の役割から解放されて、女性の脚が担っている意味や、象徴するものから自由になって、単独で勝手に動き回るひとつの機関のようなものになる。コーラスラインでの彼女たちの身体は巨大なひとつのかたまりへの融解していくようでもあるし、その周囲にばらばらに散らばった腕や脚が、花のおしべのように本体から離れてぱらぱらとこぼれおちていくようでもある。