表明

神社の鳥居をくぐるときや、神殿の前に立つときに、自分は礼もせず手も合わせない。ただしそういう場所であることはわかっているので、少しずれた位置で、出来るだけ端の方を選んで、見学客の態度で境内を歩く。建物を眺め、作法の通り参拝する人々の様子を見学している。

信仰心というのは、個々にあったりなかったりするものだろうけど、礼拝の作法というのは、完全に共同体的なものだなと思う。それをするかしないかは、信仰とはまた別の自覚、別の社会認識によるものだろうと。

そもそも、神社に祀られている何かは「信仰」の対象ではないだろうし…でも、それなら何の対象なのか…?神社の神様に手を合わせることも、やはり信仰の表明ではあって、私は敬虔であります、私は従順であります、という表明ではあるだろう。

理由はわからないけど、それを表明する者の姿には単純な強さがあり、だから、この場所で礼もせず手も合わせない自分を、自分はそれなりに強く意識してもいる。

…とか、そんなことを考えながら、並んでる参拝客たちを眺めている。

そういえば、高校生のときは毎朝礼拝があり、祈りでは必ず目を瞑り、最後にアーメンと唱えたのだった。男子高校生たちの力の抜けたような「アーメン」の声を思い出すだけで、あの薄暗い礼拝堂の固い背凭れの感触と猛烈な睡魔の朝が、よみがえってくるようだ。

しかしおそらく、あれもあれで、やはり表明ではあった。表明せずにやっていくのは、むずかしいのだ。