変わらぬ景色

幾日過ぎても、まったく何も変わらない景色を想像する。大陸横断列車の車窓風景とか、砂漠のハイウェイとか、太平洋を横断する舟の甲板から見た海とか、宇宙船の中から見た真っ暗な空とか。自分が動いているはずだが、見ている背景が変化しない。つまり自分と自分の移動スケールが、景色全体に対して小さすぎる状況。景色から見て、自分の移動が移動とは見なされないような状況。景色にそのようなものになってほしいと考えるのは倒錯だが、自分がそれほどまでに小さなスケールでありたいとの考えも馬鹿げている。もとよりそんな想像が馬鹿げている。景色が変化しないとは移動の実感を失うということだから、そうありたいとは移動を回避したい願いのあらわれかと言うと、それもまた違う気がする。移動の行先とか目的を、いったん疑いたいとか否定したいとか、そういうこととも違う。移動、アクションが成り立たない、運動の実感が返ってこないことの、意識下にアラートが鳴る経験を求めているのかもしれないが、それだとも言いたくない。つまりは毎朝見ている景色との対比をしたいだけではないかと考えて、それをいちばんつまらなく思う。何しろ、変化しない景色なら、いちばんありきたりな、恐怖をともなう子供の感覚でもって思い起こすなら、それは遭難して海を漂流するイメージだろうか。来る日も来る日も海と空だけ。渇きに衰弱する身体、迫りくる死の予感。自分を乗せた小さな筏は、まだ京浜東北線の蒲田を過ぎたばかり、横浜はまだ当分先。