パイ

パイという食べ物をはじめて知ったのは、子供の頃に読んだ絵本からで、それが何という本だったのか今も思い出せないのだけど、さくらんぼパイがたくさん出てきて、それが乱れ飛ぶというか、そのパイの中に詰まった赤いものが大量に飛び出て、登場人物たちを赤く染めて、顔も手足も真っ赤にした彼らが大喜びするみたいな話、だった気がする。

それで僕は生まれてはじめて、パイという食物を知った。それが甘いのか塩辛いのか、お菓子なのかパンなのか別のものなのか、そういうことさえ気に留めず、ただ「パイ」という固有物が存在するのだと思った。もちろんその内側には、真っ赤な半固形の液体が、ぎっしりと詰まっている…。

その地味な色をした生地の内側に、派手な色と味わいと香りを、パイは隠し込んでいて、一度その生地が破られたが最後、内側の愉悦は際限なく広がって、誰にも止められない、わけのわからないことになる…そんなイメージを、それを読んだ子供は受け止める。とにかくその薄い皮を破ってしまえば、あとは際限なく甘美が続くだけ、そんな風に想像をたくましくした。

だからそのあと、生まれてはじめて現実のアップルパイが目のまえに供されたとき、こんなはずではない、これはパイではないと強く否定したい気持ちを抑えるのが難しかった。一見地味な薄い皮を境界に持ち、その内側には甘くて危険なまでに衝撃的なものが潜んでいなければならない。それがパイのはずだ。それなのにそんなイメージから、アップルパイはあまりにもかけはなれていた。

それ以来、パイが好きではなくなった。薄生地が重なっていればパイだと称する、あらゆる菓子やケーキを全否定しつつ、その子供は成長した。やがて、お菓子そのものを、さほど好まない人物になってしまった。

ところでこれはフランス料理だが、ポール・ボキューズの作った有名なスープ(https://www.tsuji.ac.jp/oishii/recipe/world/kowakunai/tsuboyaki.html)があって、僕はもちろんボキューズ直系店ではなく個人経営の小さなレストランで、これと同じ格好のキノコのスープ(トリュフ無し…)を食べたことがあるだけなのだが、そのとき、自分にとってのパイのイメージなら、このスープがいちばん近いと思った。