愛がなんだ

今泉力哉「愛がなんだ」をDVDで観る。これもうちの奥さまが、観たいと仰って借りてきたのです。

主人公のテルコは守に魅了されていて、守はすみれに魅了されて、すみれは、守を何とも思ってないがテルコには親密さを感じているので、テルコには会いたがる。テルコは守の気持ちを知っているので、すみれから誘われると守もその場に呼ぶ。すみれに会いたい守は喜んでそこに来る。また、テルコの友達の葉子はちょっと気の弱そうな写真家の仲原と恋人とは言えない距離感の付き合いを続けている。仲原は葉子に魅了されていて、一夜を共にすることもあるが、使いっ走りを命じられてそのまま帰宅させられたり、かなり弱い立場だがそれを受け入れている。

テルコは相手に魅了される存在として、仲原と相似形である。
守は相手を魅了する存在として、すみれ・葉子と相似形である。
が、同時に守はすみれに魅了される存在でもあるから、テルコと仲原にも重なる。
すみれと葉子は魅了するだけの存在のようだが、葉子には想う相手が職場にいるようだ。
すみれだけが他より年上(三十代半ば)の設定である。

これらの関係性は物語の終盤まで、大きくは何も変わらない。いや、葉子と仲原、守とすみれの雰囲気や、テルコと新たにあらわれた男との関係など、すべてが何もかも良い感じに推移したかのようにも見えるけれど、それはとりあえずのオチで、それよりもテルコの守に魅了される理由について、テルコ自身の考えが少しずつ変わっていく過程こそが、本作の核の部分だろう。最終的にテルコは守と相思相愛にはならないし、それどころか「もうあなたのことを好きではない」と自ら口にしなければいけない。これまでの恋愛の重力に引きずられているなら、守が言うように「今のままで、まだ会ってるのって変だから、もう会わないことにしよう」という言葉に頷くしかないからだ。でも、それではダメなのだ。テルコや仲原のような魅了されるだけの存在はただ幻想を待ちわびるだけで、もしかして守や葉子は(スミレも)、寂しいと思ったことなんて一度も無いんじゃないかと仲原は口にする。昔の中国の残酷な王様の例えで云ったら、その残虐を許している家来の方がもっと残酷で、王様をダメにしてるのは家来ではないかと。そんな不毛な関係ならいっそ終わらせてしまおうと。しかしテルコは、その言葉にまるで納得できないのだ。仲原を「うるせえバーカ」と罵るしかない。そうではなくて、もっと別の考え方を、発明しなければいけない。

テルコは魅了された相手の人生に、この私も含まれているかもしれないことが幸福、という段階から、嫌でも動かなければならない。でも、だったらどうするのか、そもそもこの守という私が執着する対象とはいったい何なのか。テルコは守の状況や関係間で見せる様々な態度をほぼ観察しつくして、恋愛感情そのものの儚さと根拠のなさまでをも、徹底的に内省したうえで、物語の後半に至って、とりあえずの結論を手にしたようには思える。未練や執着ではなく、テルコが守に魅了される理由は、彼女が彼そのものになりたいからで、もはや恋とか愛とかではなく、適当な言葉があてはまらない、わけのわからない先まで行きたいからである。テルコはとりあえず別の考え方を発明して、それゆえ守に対して「別に好きでもないのに、もう会わないなんておかしい、もっと発展的な話をしてほしい。」と言うのだ。そしてラストシーンにつながる。(そして象の飼育員になりたかった守のかわりに、彼女がそうなる。)

単純に、片思いが適わなかった、だからあきらめた。そして新しい彼氏できるかも…というお話でしかない、そんな風に見えるところもあって、いろいろな解釈を許す感じが、なかなか面白かった気がする。原作の角田光代による小説は未読で、事前知識ゼロの状態で観たが、たぶん、なんとなくだけど、かなり小説の雰囲気に忠実に作られた映画ではないかとの印象をもった。登場人物のセリフなども、映画というよりも小説の言葉ではないかという感じがした。

ギター弾きの恋

奥さんが観たいと言うので、ウッディ・アレン「ギター弾きの恋」をDVDで。なんでウッディ・アレンばっかり観るの?昔観たし、もう良くない?と云うところだが、サマンサ・モートンの愛らしさ(今では信じられないけど、ほんとうに可愛いかったのか?)を確認したい、ということでしょうか。しかし劇場公開時以来だから、もう二十年近く前か。

ショーン・ペン演じるエメット・レイという、知る人ぞ知るジャズ・ギタリスト。ジャンゴ・ラインハルトに次ぐ名手と謳われ、本人もそれを自称していた。天賦の才があったが、生活は破天荒で破滅型のミュージシャンとしても名をはせた。女性遍歴も派手で、しかしどの相手とも長続きしなかった。一度結婚しすぐ離婚した、やがていつしか音楽シーンから消えたが、最後のレコードに残された演奏の美しさは比類なく感動的である…という感じの伝記というか評伝っぽい体裁で、しかしエメット・レイなどというギタリストは実在しない、架空のお話なのだが、ご丁寧にもジャズ批評家のナット・ヘンホフ(本物)やウッディ・アレン本人がもっともらしくインタビューを受け、伝説のギタリストについて語るシーンが度々挿入される。

ショーン・ペンがたまたまナンパして引っ掛けたのがサマンサ・モートンである。この女優によって表現された「可愛さ」の完成度は、じつにすごい。可愛いと同時に、可愛さとは何かを考えさせるような可愛さである。彼女は障害により話すことができないから、表情、そして身振り手振り、あと小さな紙片にミミズのような字で書く文字で相手とコミュニケーションする。それは人間の女の可愛さというよりも、ほとんどペットや愛玩動物の可愛さに近い。あるいはフェリーニ「道」のジェルソミーナが体現していた何かのでもある。いたいけで、か弱くて、無抵抗で、無垢で、白痴的で、しかし怒りや悲しみはせいいっぱいアピールする、嬉しければよろこぶ、どうして良いかわからないときは、少し猫背で首をすくめたようにして、そっと相手の顔をうかがう。洗濯屋で働いていて、お昼はいつも海を見ながらベンチに座ってひとりでお弁当を食べていて、ステージを観ながら子供みたいにパフェを食って、怒って拗ねて泣くのを我慢して口をへの字にして、この演じられている芝居、とにかく全部が釣り針で、わかっていても簡単に釣られてしまう。「可愛い」「せつない」「かわいそうすぎる」「でもちょっと鬱陶しい」「なんか重い」「しかしやはり可愛い」「なんとかしてやってくれ…(泣)」みたいな往復的感情にさいなまれて大変なことになる。

身勝手でいい加減なショーン・ペンからから邪見な扱いを受け続けて、終始ひたすら可哀そうなのだが、彼が時折演奏する"I'm Forever Blowing Bubbles"という曲が聴こえてきたとき、彼女はいつも、うっとりとその曲に聴き惚れてしまって何も手につかなくなる。ショーン・ペンはそんな彼女に気付きもせず、つまらなそうに咥えタバコでギターを弾くだけだ。サマンサ・モートンは部屋の扉のかげや、相手に背を向けたままの姿勢で、いつも一人でひっそりとその旋律を聴いて陶酔している。

映画のラストで、サマンサ・モートンを失ったショーン・ペンが、なぜ最後に「俺は間違っていた」と叫び、ギターを破壊して泣き崩れるのか。最後に演奏された"I'm Forever Blowing Bubbles"を、かつてひそかに黙って聴いていてくれた存在、その耳が、失われたことにそのときに気付いたからなのか。音楽家にとって聴き手は、常にどこにいるのか、いるのかいないのかさえ、わからないものかもしれないが、しかしショーン・ペンはあのときはっきりと、沈黙のうちに、いつも確かにその音楽を聴いてくれていた、そんなかけがえのない存在を失ったという、そのことを音楽家特有の不思議な直観によって悟ったのだろうか。

ちなみに話の後半、短い結婚生活の相手としてユマ・サーマンが出てくるのだが、この人はサマンサ・モートンとは全然別の雰囲気で高身長クール美人なのだが、じつは作家志望で書く題材を探しまわって興味の赴くままに誰彼問わず色々と気が多くて果ては浮気するとか、なにしろ「中途半端なインテリ女がいちばん厄介で愚劣」みたいな、作者の偏見が一身に込められた存在という感じで、演じる役者はわりと気の毒である。

失踪日記

吾妻ひでお失踪日記」を再読する。いつ読んでも、すごすぎてものが言えなくなる一冊だが、何を差し置いてもまず、その絵が圧倒的で、その言い方で正しいのかわからないけど、フォーマリズムの強みというのか、形式というものの傍若無人性というのか、この作品が、この形式で完成されている事実には、言葉をなくさせるようなものがある。酸鼻のきわみみたいなえげつない話がソフトな絵柄で表現されているから読みやすくなってるとか、そんな事ではまったくないのだけれども、しかしなぜそんな話ではない領域にこの作品が達しているのか、それをうまく言おうとしても難しい。これは最初からこうだったのだろうとしか思えない。でもそんなはずないでしょ、とも当然思う。これをこの形式にのって体験するしかないところに、うちのめされるしかない、という感じなのだ。マンガという表現の歴史の厚みというのがきっとあって、僕はそのあたりを知らないのだけれども、表情とか歩くとか毛布にくるまって寝るとか、作画のあらかじめ非常に強く定まった記号的な約束があって、そういった大枠の踏襲と少しの逸脱で構成される、マンガは元々とても形式性の強いジャンルだとは感じられるのだが、しかしそれにしても「失踪日記」はきわめて保守的なスタイルでありながら、結果として、こんなことになってしまうだなんて。その結果に、皆が唖然としているような、青ざめた顔で黙っているような、軽はずみな一言二言をつつしまずにはいられないような、そういうヤバい感じが漂う。そして五分に一度くらい、五秒間ほど笑ってしまう。

Game

昼だと二時間で、短いじゃないですか でも土曜夜だと大丈夫みたいなんですよ それでオールでカラオケどう?って言われて うーんいいよって言って えー行くんだ?って言われて いいけど私、朝はいったん家帰ってシャワー浴びて寝ていい?って言ったから私は大丈夫ですけど それで日曜は昼からなんで 友達さんはどっかに宿を取ったらしいんで それで友達さんと会ってもう一人と待ち合わせして 私はリアル友達なんですけどもう一人は初です あー、そのときの話とは別だから、あとは流れですね あー知ってます知ってます、好きです はい、私バイトしてたことあります、昔居酒屋で タモリ倶楽部、へえ…そうなんですか 知らなかったです、昔からあると思ってました そうです、もっとゆっくり喋ってってお客さんに言われたことあります 週に二、三回くらいじゃないですか、常連さんって 半分半分くらいですかね

毎夜プレイしているオンラインゲームで、以前にも会ったことがあるプレイヤーに昨晩偶然再会した。
フレンドと一緒にログインしたら、フィールド内にその人は以前と同じように一人でいた。
特徴的な名前と、フェイバリットなキャラクターの並びが、かすかに記憶にあって、私はすぐにその人だとわかった。
フレンドに聞いたら、きっとそう、私もおぼえてる、と返事が来た。
でも、すごいことだ、こんな偶然があるなんて、と思った。
その人がフィールドにいる理由は「散歩」のためで、私たちと対戦する意志はない、以前もそうだったのだ。
だから前回と同じく、今夜もその人が見張ってくれている中で、私とフレンドは安全にいくつかのアイテムを入手できた。
お礼のあと、以前にもお会いしませんでしたか?と言って、私はそのときのキャラクター名を告げた。
ああ、おぼえてます。あのときの人ですね、とその人は応えた。
やっぱりそうだった。もう一度、ありがとうと言った。
フレンド申請を送ろうかと思って、ちょっと手が止まった。どうしよう、と思った。
では、もしまたお会いしたら、そのときもよろしくお願いしますね、とその人は言った。
はい!ぜひお願いします、と私は応えて、それで、フレンド申請は今度でいいと思った。
でもこんなことって、とてもめずらしいはずで、すごく低確率な出来事のはずだと思った。
いつか本当に、また会えるのか、それはわからない。
もしまた会えたら、逆にそれは何か、ゲーム要素としてそういう何かがあるのかもしれないけど。

「その人って、男か女かも、年齢も、ぜんぜん不明なんでしょ?」
「はい、全部不明です。ツイッターやってるかどうかもわかりません。」
「男女別もわからないのか。」
「性別欄は男と女と未選択があるんですけど、その人は女です。
「そうなの。」
「でも本当かどうかは、わからないです。女なのに男で登録してる人はいっぱいいます。」
「なるほど、逆もありそうだね。」
「わかりませんけど、たくさんいると思います。」
「まあ、たしかに僕も、何十年前かに対戦格闘ゲームやってたときは女性キャラ使ってたな。」
「まあ、そういうもんですよね。でもたぶんですけど、なんとなくその人は女だと思いますけどね。」
「そうなんだ。」
「はい、なんとなくですけど。」

たとえば「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」に出てくる劇中映画で、ナチス将官たちが作戦会議しているところに武装したディカプリオがこっそりと忍び込んで、会議室の上からいっせいに火炎放射器の炎を浴びせて、将官全員を火だるまの皆殺しにするシーン。こういう場面は世界中の様々な映画において、何度となく撮られてきただろう。ナチスの連中は殺したってかまわないのだ。できるだけ派手に盛大にやって良いことになっている。(そして火炎放射はラストで再び…。)

「ダーク・ナイト」のジョーカーは、使用する武器としていわゆる"チープな"すなわち銃とか刃物とかガソリンとか火薬などを好む。資金は潤沢に持っているはずなので、その気になれば破壊力に富んだ最新兵器だって容易に入手も可能だろうが、それはしない。それどころか報酬として受け取った巨大倉庫の天井にまで届きそうなほど積みあがった札束の山に火をつけ、依頼者の目の前で燃やしたりもする。まるで二十世紀の戦争のような、そんな貧者の武器に可能な汚濁したダメージへの拘りを、ジョーカーからは感じる。また交換条件と引換えの連続殺害予告や人質のビデオ映像公開など昨今のテロルを彷彿とさせる手口も多い。

ではバットマンがどうかと言えば、彼は世界最高峰の技術によって作られた最新のシステムやガジェットや自動車やバイクを利用する。テクノロジーの実態が素人目にはわからないような、ほとんど謎ツールばかりに身を固めている。しかしそれでいながら、バットマンは殺生をしないために、重火器も刃物も使わず、敵と渡り合う場合は素手で格闘するか、あるいは主にワイヤーとかを使った「罠」を仕掛けることで相手の動きを奪い身動きできなくさせて、それによって攻防に一応の決着をつける。なにしろ生身の人体に致命傷を与えることだけは周到に回避され、その法則はジョーカーにすら適用される。ほとんどそのために荒唐無稽とも言えるような高度なテクノロジーが駆使されているようにも思われる。そのために必死で神経使って技術施策してるせいかはわからないが、ジョーカー一味にくらべてバットマンの表情はいつも沈鬱で重苦しくうつむき気味だ。

「ブラック・クランズマン」に登場するKKKの一味は上は最高幹部から下はチンピラまでいて、KKKとは言えさすがに上の人たちは世間を相手に取りつくろうのは上手くて人並みの社会常識は持ち合わせていて、下の連中も一応はそうだけど、でもやはりどこか思慮が足りず浅はかなので爆弾によるテロを敢行しようと企んで、作戦は失敗して自分らが死に至ることになる。この映画を観て僕ははじめて知ったような気がしたのは、そうかKKKナチスと同じ扱いでかまわないのかということだ。もしバットマンなら、床に仕掛けたワイヤーで引っ張り上げて三人まとめて逆さまの宙吊り状態にするとか、そんな懲らしめ方で終わるところだろうけど、そんな程度では済まなかった。つまり全員を火だるまにして皆殺しにして、派手に盛大にやって良かったのか。たしかにナチスKKKも人間の屑だからな。しかしそう気づいたばかりなので、今はまだ慣れてない感じがある。

悪の映画2題(+1)

Amazon Prime Videoでノーラン「ダーク・ナイト」を観る。長過ぎじゃないか。「まだあるのか…」と途中で妻と顔を見合わせたほどだ。ジョーカーが代表する「悪」の、強盗やカーチェイスや銃撃戦や爆破などのきわめて原始的ながら派手で活き活きとしたアクションと、バットマンが代表する「善」の、CG技術が駆使された暗闇に冷たく鈍い光沢を放つ未来型最新メカニックやシステムの描写が対比的に描かれる。楽しげでやることなすこと思いのままといった感じで、登場人物としての魅力全開なジョーカーに比して、始終沈鬱な表情で苦渋の選択や決断を迫られるばかりなのがバットマン陣営であるが、より楽しく活き活きと健やかに自分の人生を自分のやりたいように謳歌しているのがどちらなのかは誰の目にも明らかという感じで、とはいえ潤沢な資金と最新技術に支えられたバットマン氏の超セレブ生活もけして悪くはないわけで、正義や社会秩序維持のため、義務感というかノブレス・オブリージュ的精神をひたすら発揮する点は立派ながら、何しろ彼らにとってゴッサム市の維持存続(税収)が自分らの存在条件でもあるのだから、反社会勢力と必死に闘うのは当然といえば当然とも言える。ともあれそんな攻防に挟まれたかたちの警察、銀行、法務関連をはじめとするゴッサム市民や組織人達は自分の財布が軽くならないように組織内でひたすら闇取引やスパイ行為に明け暮れるばかりというか、そういった社会的立場の差異から生じる汚染や対立が、典型的トリックスターのジョーカーと時折交差するまた別の「悪」として描かれてもいる(ジョーカーはそんな人々の悪を上手く利用するのだが、それで彼らの悪のちっぽけさを侮蔑し戒めているかのようにも見える)。しかしジョーカーという人物の、善への威嚇・挑発として、AとBどちらかを選べ的な正義と選択問題にやけに拘るのはどうなのか、それが高潔な精神を捨て悪に堕した半顔の地方検事を生み出すのだが、この悪役がイマイチつまらないし、ジョーカーも不適な態度や銃撃戦シーンなどなかなかカッコ良くて雰囲気はかなり魅力的ながら、口にするセリフも毎度深淵っぽいけどさほどでもないし所々で不足を感じるというか、せめてもっとドスの効いた妖しい黒光りを期待したくなってしまう。

続けてスパイク・リー「ブラック・クランズマン」を観る。スパイク・リーを観るのもじつに久しぶりだが、白人が電話の声役の黒人とタッグを組んでKKKのアジトを潜入操作するという、スパイ・刑事モノのスリリングな娯楽作品に振った感じで、黒人が白人の口真似してのべつまくなしヘイトを喚いて敵をあざむくとか、執拗に疑われて身元がバレそうでヒヤヒヤするとか、かなり面白いとは思うのだが、最後の各集会の場面が交互に出て来て、そんなさなかに悪い連中がまとめて墓穴掘る結果まで観て、あまりにあっけらかんとした展開だったので、驚くというか最後はやや引いてしまうところもないではなかった。本作の悪役達はずいぶん憎たらしくて卑劣で、そのぶん観る者にとっては与しやすく物語の最後まで来ればある意味こちらの溜飲も下がるのだが、この軽快にひらきなおった感じがどうにも後味悪くて、たしかにこれも"アリ"だし、面白く楽しめるし、それこそがスパイク・リーの仕事なのだろうとは思う。まして昨今の世界的状況を鑑みれば、なおさらそこに喫緊の必然性というか、必要なのはまずなるべく広範囲に届く即効の効果であるという意志に説得力が宿るのもわかる、のだが…。

続けてウッディ・アレンミッドナイト・イン・パリ」を観る。は?なんでよ、と言う感じだが、妻が観たいと言うので仕方がない。僕はもうこの映画はなぜかこれまで何度も観たのでさすがにもう観なくていいやと思ったけど、ごはん食べながら最後まで観てしまった。まずきっちり90分で終わるところはいい。美術館の学芸員ピカソのモデルを務めていたマリオン・コティヤール、中盤と最後に登場する古道具屋の店番の娘…、この現実にはまるで反りの合わない連中もいるけど、若くて魅力的な女性もいるんだから、絶望の手前でどうにか明るく元気にやっていけるかもしれないな、そうだなあ、まあ、がんばろうじゃないか、ということでございましょうか。ことに古道具屋の娘、けして美人ではないけど目を離せなくなるような魅力…。畳み掛けてくるようなラストの笑顔。主人公に自分自身そっくりな芝居をさせ、ああいう女優をラストシーンの相手役に起用してしまうキャスティングこそがウッディ・アレンの凄み(?)であろう。(あの女優が他のどんな映画に出てるのか、ほとんど情報がない…。)

定例

10月下旬、毎年この季節って、いつもこんなだっけ、いやいやいやたぶん違うでしょ、こんな、暑いんだか寒いんだかよくわからない、上着きてもなんか汗ばむみたいな、根拠不明な不快感のまとわりつくような、でも、まあ仕方がない。日が暮れたので、何しろまた、いつもの店へ向かって歩いていると、店の前のテラス席傍らに立って店内を覗き込んでる姿勢のE氏が見える。立ち飲み屋じゃないんだから…と思って、なにしてるのかと思ったら、窓越しにスタッフの子と喋ってるのか。僕が近づくと、店の子の方が、あーっ!とこちらに気づいて喜んでる。E氏はいつもの無表情でこちらに顔を向け、けっこう遅かったじゃないですか、と一言。見た?あの娘、僕が来たとき、たぶん君より嬉しそうな顔してたじゃん、と言ったら、E氏は不機嫌そうに無視する。

やがて残りの三人も来て計五人、妙な暑さが鬱陶しいのでビールからスタートする。Kさんと僕は初対面なのではじめましての挨拶。気さくで気兼ねない、感じいい女性。それにしても少なくとも僕とE氏はこの店に来過ぎで先週だか先々週も来てるから、この黒板メニューも既にかなり見覚えあって、どれを注文してもいまいち新鮮味ないのだが、E氏なんかおそらく週一ペースで来てるから、オンメニューのほぼ全料理を知ってるのではないか。Kさん以外の人は半年ぶりくらいに会ったけど全然久しぶり感なし。いつものことだけど、このタイミングでとくにこうして集まる必然性もほぼないのだけど、定例大事、それはそれで良し。昔の上司で今は経営者のN氏、順調そうで何より。喋ってると昔のままだが、なつかしい昔っぽさを感じさせられたこと自体は、久しぶりかもしれなかった。ボトルもばんすか空き、皿も積み重なり、食後酒までしっかり飲み干して、お支払い額もなかなかしっかり目で、総じて満足だったのではないでしょうか。未明に帰宅。