ギター弾きの恋

奥さんが観たいと言うので、ウッディ・アレン「ギター弾きの恋」をDVDで。なんでウッディ・アレンばっかり観るの?昔観たし、もう良くない?と云うところだが、サマンサ・モートンの愛らしさ(今では信じられないけど、ほんとうに可愛いかったのか?)を確認したい、ということでしょうか。しかし劇場公開時以来だから、もう二十年近く前か。

ショーン・ペン演じるエメット・レイという、知る人ぞ知るジャズ・ギタリスト。ジャンゴ・ラインハルトに次ぐ名手と謳われ、本人もそれを自称していた。天賦の才があったが、生活は破天荒で破滅型のミュージシャンとしても名をはせた。女性遍歴も派手で、しかしどの相手とも長続きしなかった。一度結婚しすぐ離婚した、やがていつしか音楽シーンから消えたが、最後のレコードに残された演奏の美しさは比類なく感動的である…という感じの伝記というか評伝っぽい体裁で、しかしエメット・レイなどというギタリストは実在しない、架空のお話なのだが、ご丁寧にもジャズ批評家のナット・ヘンホフ(本物)やウッディ・アレン本人がもっともらしくインタビューを受け、伝説のギタリストについて語るシーンが度々挿入される。

ショーン・ペンがたまたまナンパして引っ掛けたのがサマンサ・モートンである。この女優によって表現された「可愛さ」の完成度は、じつにすごい。可愛いと同時に、可愛さとは何かを考えさせるような可愛さである。彼女は障害により話すことができないから、表情、そして身振り手振り、あと小さな紙片にミミズのような字で書く文字で相手とコミュニケーションする。それは人間の女の可愛さというよりも、ほとんどペットや愛玩動物の可愛さに近い。あるいはフェリーニ「道」のジェルソミーナが体現していた何かのでもある。いたいけで、か弱くて、無抵抗で、無垢で、白痴的で、しかし怒りや悲しみはせいいっぱいアピールする、嬉しければよろこぶ、どうして良いかわからないときは、少し猫背で首をすくめたようにして、そっと相手の顔をうかがう。洗濯屋で働いていて、お昼はいつも海を見ながらベンチに座ってひとりでお弁当を食べていて、ステージを観ながら子供みたいにパフェを食って、怒って拗ねて泣くのを我慢して口をへの字にして、この演じられている芝居、とにかく全部が釣り針で、わかっていても簡単に釣られてしまう。「可愛い」「せつない」「かわいそうすぎる」「でもちょっと鬱陶しい」「なんか重い」「しかしやはり可愛い」「なんとかしてやってくれ…(泣)」みたいな往復的感情にさいなまれて大変なことになる。

身勝手でいい加減なショーン・ペンからから邪見な扱いを受け続けて、終始ひたすら可哀そうなのだが、彼が時折演奏する"I'm Forever Blowing Bubbles"という曲が聴こえてきたとき、彼女はいつも、うっとりとその曲に聴き惚れてしまって何も手につかなくなる。ショーン・ペンはそんな彼女に気付きもせず、つまらなそうに咥えタバコでギターを弾くだけだ。サマンサ・モートンは部屋の扉のかげや、相手に背を向けたままの姿勢で、いつも一人でひっそりとその旋律を聴いて陶酔している。

映画のラストで、サマンサ・モートンを失ったショーン・ペンが、なぜ最後に「俺は間違っていた」と叫び、ギターを破壊して泣き崩れるのか。最後に演奏された"I'm Forever Blowing Bubbles"を、かつてひそかに黙って聴いていてくれた存在、その耳が、失われたことにそのときに気付いたからなのか。音楽家にとって聴き手は、常にどこにいるのか、いるのかいないのかさえ、わからないものかもしれないが、しかしショーン・ペンはあのときはっきりと、沈黙のうちに、いつも確かにその音楽を聴いてくれていた、そんなかけがえのない存在を失ったという、そのことを音楽家特有の不思議な直観によって悟ったのだろうか。

ちなみに話の後半、短い結婚生活の相手としてユマ・サーマンが出てくるのだが、この人はサマンサ・モートンとは全然別の雰囲気で高身長クール美人なのだが、じつは作家志望で書く題材を探しまわって興味の赴くままに誰彼問わず色々と気が多くて果ては浮気するとか、なにしろ「中途半端なインテリ女がいちばん厄介で愚劣」みたいな、作者の偏見が一身に込められた存在という感じで、演じる役者はわりと気の毒である。