画と眼

三宅唱の「ケイコ 目を澄ませて」で、プロになって二試合目の試合は辛くもケイコが勝利したのだが、移動時にガードをしないから「余計に何発ももらっている」と会長やコーチから指摘される。それが、試合を撮影した映像で何度もリピート再生される。カクカクと行きつ戻りつする、リング上の二人をとらえた粗い画像。しかしこの映像を、ケイコ本人より熱心に見ているのは会長のようだ。背を丸めて執拗に画面を見続けている彼を偶然見てしまったケイコは、ボクサーをやめる決意を書いた手紙を会長に渡すことができなくなる。

その試合中に客席でお母さんが撮ったデジカメ写真。娘が相手から連打されているのを見ていられず、それでもシャッターは切るので、画像は見るも無残に手ブレしており、被写体はほとんど原型をとどめず、流れる光と影で出来た、粘状の固形物ようになっている。これらの写真の、何も写ってない感じ、あるいは思ってたのと違うものばかりが写ってる感じ。

ジムが閉鎖になって、取り払われたリングの場所に並んで、トレーナーの男性とその家族らが記念写真を撮っている。シャッターをセットして最初は失敗して、そのあと何度か撮り直す。けっこう念入りに何度も撮る。その場にいなかったケイコは、後ほどメールで送られてきたその写真を見るだろう。

ケイコはつねに自身の正確な姿を、写真や映像に認めない、残されないままで、ブレブレの写真をぼんやりと眺めるだけだ。

道で人とぶつかって悪態をつかれたり、暗闇の河川敷に独りで佇んでて警察から色々聞かれたり、コンビニでポイントがどうのこうのと言われて一瞬戸惑ったり、そういう厄介ごとを日常で味わう場面はいくつもあるが、彼女は黙ったままでそれを凌ぐ。「姉さんは強いから」とか、弟に言われるが、そんな言葉は彼女には心外だ。彼女も悩むし自分自身を掘り返して様々に確認したいと思うだろうけど、彼女が自分自身を正確に見るための手がかり、たとえばきちんとした映像や画像は、なぜか彼女には提供されないようだ。

とはいえ自分自身を正確に見るための手がかりなんて、もとより誰にとってであれ、そんなものはこの世にないのかもしれず、丁寧できれいに見える画像を有難がってることの方が、滑稽なのかもしれないが。

彼女が自分を記録し、振り返り、考えるための材料は、おそらく今までもこれからも常にあのノートであるだろう。彼女の考えや思いは、会長の奥さんに貸し出されたノートの記述によって、ひとまずは会長や奥さんに共有される。書かれたものは、奥さんの声で朗読され、それを会長も聞いた。そして映画を観る者にも、そのときにはじめて開示される。思いのほか、いろいろと書いてあり、絵まで描かれていたりもする。寡黙な彼女の印象から少し浮いたようなその感じに、やや虚をつかれる思いを味わうことになる。

「彼女は目がいいんです」と会長は言う。試合中リングサイドからの声もレフェリーの声も聴こえないというだけで、彼女は大変なハンデを背負っている。声は聴こえないが、あらかじめいくつかの合図を決めてあって、試合中はそれでリングサイドから指示を出すと聞いた相手から「試合中にその指示を見る余裕があるんですか?」と問われ、ジムのコーチは「見ているかわかりませんが、それで闘ってます」みたいな返答をする。

ケイコがどのように眼が良くて、何が見えていて、あるいは見えてなくて、なぜモティベーションが下がり、しかしなぜ再び試合に向かおうとしたのか、それらはわからない(それらは映ってない)。その後の彼女がどうするのかもわからない。

ケイコ 目を澄ませて

立川のシネマシティで三宅唱「ケイコ 目を澄ませて」(2022年)を観る。言ってみればありふれた、どこにでもありそうな物語をベースに、何というか、映画そのものが作動して、こうなった。決して突飛な表現手段がとられているわけではない。むしろ古典的というか、各場面、各シーケンスの、過不足のない的確で絶妙な各成果の配置。往年の日本映画のようなクラシック感さえ感じる。

しかし、まず音である。最初のシーンで、主人公の岸井ゆきのは、テーブルに向って手紙を書いている。紙面にペンが走るときの鋭く硬い音が響く。これで映画がはじまる。

いかにも下町の雰囲気を纏った、薄暗くて古びて湿ったようなボクシングジムに、縄跳びの縄の、鋭く地面にあたる音が響く。その一定間隔のリズムに、誰かがサンドバッグを叩く音が重なる。渇いた音同士が、重なって立体的になる。そこに主演の岸井ゆきのが、相手のトレーナーと、まるで複雑なお手玉遊びのように、細かく素早く矢継ぎ早のパンチを連続で当てる練習をはじめて、皮革を叩く音が加わってその重なりはさらに複雑さを増す。しかしここで立ち現れるポリリズム的な音の集合は、決して高揚をともなうことにはならない。

とはいえ、何かの力というか、ある強いしきたりというか、確実さのようなもの、何かをひとつに束ねるだけのルールのようなもの、眼には見えない何かの、その場に作用しているのは、それで何かが変容することだけは、感じられる。淀んだ薄暗闇を背景に、張り詰めた空気、訓練の成果による技術的洗練、その技術力と身体からフィードバックされる安定的信号が、鋭く明確な音の徴として刻まれる。彼らや彼女らを支えるものの実質は、その一定間隔で響く打撃音にこそあるだろう。

もろにコロナ禍な世の中が舞台となっていて、西暦2020年とか2021年とかクレジットに出てくるし、みんなマスクしてるし、クライマックスの試合は無観客である。登場人物たちのやり取りも適宜スマホの画面だし、主に意思疎通の道具としてタブレットも頻出する。今の世の中をまるで屈託なく、そのまま映画にしてる感じはある。しかしそうではあるのだが、筆記具で書いた手紙、または日々の練習内容や自分に対する所感をぎっしりと書きつけたノートと完全手書き用の筆記具が本作ではとても重要で、なぜならそれは、それらが書きつけられたときに、ガリガリと音を発するからだろうと思う。

同居する弟が録音を試みている自作曲の断片をのぞいて、劇中に音楽は使われていないのだが、状況説明や聾唖者同士の対話をあらわす字幕は惜しみなく多用される。言葉はとりあえずいいのだ。問題は音だ。

ただし聴覚障害者の主人公自身には、その音が届いてないはずで、主人公は音に対しては常に無反応かあるいは遅れて気づく。この映画を観ている観客は、音を伴う出来事のすべてを自身で感じるが、主人公のケイコはそれを受け取っていない、映画を観る観客はそのことを常に想像しながらスクリーンを観るが、ケイコの内面や心象は、潔癖なまでにこの映画に描かれない。音を聴かない人であることによって彼女は、周囲とも映画を観る視線からも、見事に断絶している、という印象を受ける。

この映画の「これは、かなりすごいものを観た」と感じざるを得ない手触りが何かと言えば、このある意味で清々しいほどの断絶感の手触りではないかと思う。これみよがしの孤独とかではないし、会長らとの信頼関係や後半で意欲を取り戻していく過程など、彼女が悲劇的に演出されているところは微塵もないのだが、それとは関係のない本来の断絶、存在している以上誰もが等しく引き受けているはずの断絶、とでも言いたいようなものの手触りがありはしないか、と思う。

それにしてもロケ地がどれもこれもほぼ全てが、自分の住んでる地域の近隣で、これはあそこ、ここはどこと、どの風景も具体的に名指しできそうな感じだった。それだけでなく、この映画はこの墨田、足立、葛飾区の空気感無しでは、まったくこのようにはならなかったはずの、景色そのものがおよぼす作用がとても大きい。河川敷の土手や電車高架、あるいは頭上に走る高速道路の高架などが適宜視界を遮っていて、屋外の空間を単調で平坦で空っぽではない、独特なものに印象付けている。

外回り

1991年の、銀座線で浅草から上野まで、山手線で上野から池袋まで、さらに西武池袋線で所沢方面へと下っていく、その一部始終を、ひたすらビデオ撮影した映像がYoutubeにあって、この乗り継ぎはそれこそ、三十年以上前の自分が毎日のように利用していたルートにほぼ重なるのだが、そんな映像を東海道線京浜東北線に車内にいた帰宅途中の自分がiPhoneで見ていた。

https://www.youtube.com/watch?v=KspzoeAOj4g

ところが電車内でそんな映像を見てると、耳に届く音が、現実の音かイヤホンを通した映像の音かが判別しがたくて、ものすごくややこしい状態におちいる。三十年前の電車内や駅構内は、発車ベルの音や、駅構内の放送、車内アナウンスの言い回しなど、当然ながら今とはかなり違うのだが、聴いてると不思議なくらいに違和感を感じなくて、もしこれが今の現実の音だとしてもすんなり受け入れてしまえる。

それだけでなく電車内の様子とか駅構内の様子とかの風景さえ、三十年も前なのに今と大して変わらなく感じる。西武線や地下鉄なんてまだ切符切りの駅員がいるし、地下鉄からJRまで階段を上がってくるときの雰囲気や周囲の売店なども今とは確実に違うのだが、なぜだろう、それほど大きな変化には感じないのだ。上野駅はとくに変化が少ないからというのもあるけど、今の自分がまさに上野駅の近くを電車で移動しているからじゃないかとも思う。もし同映像を自室など落ち着いた場所でノスタルジーモードで見たら、そのようには感じずに、もっとふつうに期待通りに「なつかしい…」と思うのかもしれない。

こうして自分自身が電車で「その場近く」にいることで、映像から受取った情報に含まれるはずの「昔っぽさの成分」が薄れてしまうのか。本来なら、昔感というか昔らしさの濃さというか、そういう部分に「なつかしさ」を感じるのだと思うが、それを積極的に自身に受け入れようという意欲が生まれて来ず、むしろ変化していない部分にばかり、気が向いてしまうのだろうか。というか「その場近く」に居ることをわかっていて行動を制御している脳内の作用が、今は「なつかしさ」で遊んでいるわけにはいかぬとばかりに、映像からの受取率を意図的に下げて、できるだけいつもと同じように処理しようとしているのだろうか。

ベース

ベースという楽器は、アンサンブルで担う役割として、まずルート音を放つことで、その楽曲が次に進む方向をひとまず指し示す。だからベースは、フレーズをあらわすのではなくて、フレーズを支えるための下地をあらわす仕事を請け負っている。フレーズとはある時間内に生成するひとつの流れだが、たとえば、"ラシド…"というフレーズの最初の"ラ"が奏でられるとき、フレーズはその先どうなるのかを今のところは指し示すことができない。しかし同時にベースが"A"音を放つことで、今聴いているこの音楽は、フレーズがこの後どのように旅をするのであれ、最終的には"A"の地平へ戻ってくるであると、さしあたりの安心というか、結論の先延ばしを受け入れ待機をうながす作用を、もたらすことができる。

そのようにして、奏でられる音楽は常に不安と安心の間を行ったり来たりするものだが、ベースは最初から最後まで原則として安心だけを供給する。もちろん時折、意図的にルートを外したとしても、それは潜在的なルートに対する活気づけのためであり、そのことでところどころに空けられる空隙が、かえって曲全体が多くの不定要素をもはらんだまま前進する、より力強いものとして印象付けられることになる。

そうだとすれば、そんなベースという楽器が盤石ではないときに、音楽は新しい局面に移行しようと模索している可能性がある。ベースが盤石ではない。それはすなわち、ピッチが安定しないとか、ルートをひたすら回避して逃げ回るとか、弦の不愉快な軋みやノイズあるいは増幅周波数が頭打ちになってひどく音割れしているとか、なにしろベースが安心素材の役割を果たしておらず、まったく健やかでないときに、音楽は揺らぎながらも、新たな寄り掛かり先を求めている可能性がある。

ベースの音が聴こえない音楽は、デモテープのような感じがする。誰かがその場で簡易的に録音したばかりのものという感じがする。完成前の楽曲の粗描き、エスキース、備忘メモのような感じがある。ベースが安定しない、あるいは暴走気味の音楽からは、強い混沌、災害のような印象をおぼえる。この録音を行ったメンバーの人間関係に問題があるのではないか、という感じを受ける。技術的な巧拙ではない本質的な未構成の印象をおぼえる。それはあくまでも印象というだけの話だが、ベースが揺らぐというのはやはり危機だ。もちろん昔から、ジャズとヒップ・ホップはひとまずベースに対して、もっとも過激ではあるだろう。

ジェフ・ベック

ジェフ・ベックの何がすごかったのか、

ギターは弦楽器だから、弾いた直後の音がもっとも大きくて、それが減衰していくのがふつうだ。ギターサウンドを聴く誰もが、ギターという楽器のもつ特性を、頭のどこかで理解しており、それを意識した上で聴いている。

そんなこと考えたこともない、という人もいるだろうが、それはその人があらかじめ想像するギターの音に慣れていて、それに気づいてないだけだ。

ジェフ・ベックのギター演奏におどろくとき、自分がいつもそのことに気づかされるのだ。

ジェフ・ベックのギターの音はしばしば、弾いた直後よりその後延びていくサステインの方が、音量的に大きくなっていく。

野蛮なほどにとめどもなく広がっていく音を、ブツッと断ち切るようにブレイクする。

これはギターの特性を知ったうえで想定される音の出方とは、逆の事態だ。

もちろん、そのような演奏をするギタリストはジェフ・ベックだけではない。今となっては、とくにめずらしくもない音だろう。

しかし、このことの異常さというか、それが本来おかしな事態であること、それに対して今でもきちんと驚いている、自分自身の行為に対して、それが異常だと自覚しているのは、ジェフ・ベックとか、その他ほんの一握りの人だけではないかと思う。

ほとんどのギタリストは、理想とか、あたえられた枠組みとか、あこがれとか、すでにある目標に対して、努力をして、なるべく百点を取ろうとする。そしてその出来に満足したり不満をおぼえたりする。出来不出来はそれぞれだろうけど、やってること自体への驚きや新鮮さはすでに失われている。

慣れてしまうより、いつまでも慣れないということの方が貴重だし、それこそが才能だろう。その意味でジェフ・ベックはすごかった。その点において、最初から最後までほぼ一貫していた。

逗留

本を読んで、その内容がきわめて抽象的な、論理を精緻に積み重ねていくようなものであるほど、まるで自分ではない誰かの身体を思わせる違和感をともなった何か、誰かの身振りのあとの嗅ぎなれない残り香、行為のあとの室内に満ちた緊張の余韻のような感触を、思い出させる感じがする。それは他人である著者の身体感覚が、並列された言葉という器に少しずつ配分されて、読んでいるこちらへと直接伝播してくるからだろうか。

ある人物が、ある本を読んで、それをその人物なりに解釈して、ある結果を残した。その経緯を、別の人物がまとめた。そのような書物を読んだとき、それはまるで見ず知らずの宿泊客が、たまたま一緒に温泉に入って、そのあとレストランのフロアの各テーブルに就き、それぞれの食事をとっているかのようでもある。彼らがテーブルに着席して何かを話しているのを、僕は片隅のテーブルで、聴こえるか聴こえないかのそれらの声を聴いている。あるいは聴いておらず、目下の料理に目を向けている。

本を読んで、あらた知識を得たとか、はじめて知ったとか、目からうろこが落ちたというとき、よくよく考えると、それはたぶん、じつははじめから、ある程度は知っていたはずのことを思い出したというか、取り戻したというか、とらえなおしたというか、輪郭をはっきりとさせて確かなものとした、ということなのだと思う。たぶん、この世にある全ての書物に書かれていることの核になる部分は、人はあらかじめ、すべてをはじめから知っているというか、すでにわかっているのだけど、そのこと自体を忘れている。だから誰にとっても、すべての本は再読であり、なぜそれを読むのかといえば、今は忘れている、いやそれどころかもとより何の心当たりもない、それでも直観の知らせのようにして、かつての経験を思い出させようとする力がはたらくからではないか。

楽器的音楽

非・楽器的、そう言いたくなるような、楽器自体の物質性をあまり感じさせない音楽。

たとえば前近代の西洋音楽なら、原則として楽器演奏のすべてが部分として音楽そのものに奉仕されなければならず、音要素と完成した音楽のあらわすものとの間に、出来るだけノイズが介在しない状態が良しとされている…のだと思う(前近代音楽をほぼ聴かないのでよく知らないのだが)。

同様に電子音楽も非・楽器的な音楽だろう。完成した音楽に楽器の手触りは含まれない。しかし楽器の手触り感の、デジタル複製された感触がそこには付与される。それが明確にコピー=再現前であると知覚できることこそが、電子音楽の特性となる。

音楽である前に、まず楽器の物質性を感じさせるのが、楽器的な音楽と言えるだろう。演奏者の超絶技巧が前面に出る音楽は、楽器的音楽とは言えるかもしれないが、超絶技巧とは楽器の特性に対して演奏者が予想を越えた技術力を提示する事態を指すので、それが楽器性の露呈につながることもあれば、むしろ非楽器的なものに聴こえてしまうこともあるだろう。

楽器は音を出力する媒体で、問題となるのは音であるはずだが、そこになぜか媒体自体が紛れ込んでしまう事態。音とはフレーズでありリズムでありそれらの複合体であるが、媒体である楽器の物質性がそこに紛れ込むことで、音の成立条件を根本的に揺るがすことになる。

音楽ははじまりも終わりも不定なので時間的なフレーム枠は存在しないが、物質的にはフレームをもつ。それが媒体としての楽器にあたる。そこには増幅装置や再生装置も含まれる。