外回り

1991年の、銀座線で浅草から上野まで、山手線で上野から池袋まで、さらに西武池袋線で所沢方面へと下っていく、その一部始終を、ひたすらビデオ撮影した映像がYoutubeにあって、この乗り継ぎはそれこそ、三十年以上前の自分が毎日のように利用していたルートにほぼ重なるのだが、そんな映像を東海道線京浜東北線に車内にいた帰宅途中の自分がiPhoneで見ていた。

https://www.youtube.com/watch?v=KspzoeAOj4g

ところが電車内でそんな映像を見てると、耳に届く音が、現実の音かイヤホンを通した映像の音かが判別しがたくて、ものすごくややこしい状態におちいる。三十年前の電車内や駅構内は、発車ベルの音や、駅構内の放送、車内アナウンスの言い回しなど、当然ながら今とはかなり違うのだが、聴いてると不思議なくらいに違和感を感じなくて、もしこれが今の現実の音だとしてもすんなり受け入れてしまえる。

それだけでなく電車内の様子とか駅構内の様子とかの風景さえ、三十年も前なのに今と大して変わらなく感じる。西武線や地下鉄なんてまだ切符切りの駅員がいるし、地下鉄からJRまで階段を上がってくるときの雰囲気や周囲の売店なども今とは確実に違うのだが、なぜだろう、それほど大きな変化には感じないのだ。上野駅はとくに変化が少ないからというのもあるけど、今の自分がまさに上野駅の近くを電車で移動しているからじゃないかとも思う。もし同映像を自室など落ち着いた場所でノスタルジーモードで見たら、そのようには感じずに、もっとふつうに期待通りに「なつかしい…」と思うのかもしれない。

こうして自分自身が電車で「その場近く」にいることで、映像から受取った情報に含まれるはずの「昔っぽさの成分」が薄れてしまうのか。本来なら、昔感というか昔らしさの濃さというか、そういう部分に「なつかしさ」を感じるのだと思うが、それを積極的に自身に受け入れようという意欲が生まれて来ず、むしろ変化していない部分にばかり、気が向いてしまうのだろうか。というか「その場近く」に居ることをわかっていて行動を制御している脳内の作用が、今は「なつかしさ」で遊んでいるわけにはいかぬとばかりに、映像からの受取率を意図的に下げて、できるだけいつもと同じように処理しようとしているのだろうか。