逗留

本を読んで、その内容がきわめて抽象的な、論理を精緻に積み重ねていくようなものであるほど、まるで自分ではない誰かの身体を思わせる違和感をともなった何か、誰かの身振りのあとの嗅ぎなれない残り香、行為のあとの室内に満ちた緊張の余韻のような感触を、思い出させる感じがする。それは他人である著者の身体感覚が、並列された言葉という器に少しずつ配分されて、読んでいるこちらへと直接伝播してくるからだろうか。

ある人物が、ある本を読んで、それをその人物なりに解釈して、ある結果を残した。その経緯を、別の人物がまとめた。そのような書物を読んだとき、それはまるで見ず知らずの宿泊客が、たまたま一緒に温泉に入って、そのあとレストランのフロアの各テーブルに就き、それぞれの食事をとっているかのようでもある。彼らがテーブルに着席して何かを話しているのを、僕は片隅のテーブルで、聴こえるか聴こえないかのそれらの声を聴いている。あるいは聴いておらず、目下の料理に目を向けている。

本を読んで、あらた知識を得たとか、はじめて知ったとか、目からうろこが落ちたというとき、よくよく考えると、それはたぶん、じつははじめから、ある程度は知っていたはずのことを思い出したというか、取り戻したというか、とらえなおしたというか、輪郭をはっきりとさせて確かなものとした、ということなのだと思う。たぶん、この世にある全ての書物に書かれていることの核になる部分は、人はあらかじめ、すべてをはじめから知っているというか、すでにわかっているのだけど、そのこと自体を忘れている。だから誰にとっても、すべての本は再読であり、なぜそれを読むのかといえば、今は忘れている、いやそれどころかもとより何の心当たりもない、それでも直観の知らせのようにして、かつての経験を思い出させようとする力がはたらくからではないか。