ケイコ 目を澄ませて

立川のシネマシティで三宅唱「ケイコ 目を澄ませて」(2022年)を観る。言ってみればありふれた、どこにでもありそうな物語をベースに、何というか、映画そのものが作動して、こうなった。決して突飛な表現手段がとられているわけではない。むしろ古典的というか、各場面、各シーケンスの、過不足のない的確で絶妙な各成果の配置。往年の日本映画のようなクラシック感さえ感じる。

しかし、まず音である。最初のシーンで、主人公の岸井ゆきのは、テーブルに向って手紙を書いている。紙面にペンが走るときの鋭く硬い音が響く。これで映画がはじまる。

いかにも下町の雰囲気を纏った、薄暗くて古びて湿ったようなボクシングジムに、縄跳びの縄の、鋭く地面にあたる音が響く。その一定間隔のリズムに、誰かがサンドバッグを叩く音が重なる。渇いた音同士が、重なって立体的になる。そこに主演の岸井ゆきのが、相手のトレーナーと、まるで複雑なお手玉遊びのように、細かく素早く矢継ぎ早のパンチを連続で当てる練習をはじめて、皮革を叩く音が加わってその重なりはさらに複雑さを増す。しかしここで立ち現れるポリリズム的な音の集合は、決して高揚をともなうことにはならない。

とはいえ、何かの力というか、ある強いしきたりというか、確実さのようなもの、何かをひとつに束ねるだけのルールのようなもの、眼には見えない何かの、その場に作用しているのは、それで何かが変容することだけは、感じられる。淀んだ薄暗闇を背景に、張り詰めた空気、訓練の成果による技術的洗練、その技術力と身体からフィードバックされる安定的信号が、鋭く明確な音の徴として刻まれる。彼らや彼女らを支えるものの実質は、その一定間隔で響く打撃音にこそあるだろう。

もろにコロナ禍な世の中が舞台となっていて、西暦2020年とか2021年とかクレジットに出てくるし、みんなマスクしてるし、クライマックスの試合は無観客である。登場人物たちのやり取りも適宜スマホの画面だし、主に意思疎通の道具としてタブレットも頻出する。今の世の中をまるで屈託なく、そのまま映画にしてる感じはある。しかしそうではあるのだが、筆記具で書いた手紙、または日々の練習内容や自分に対する所感をぎっしりと書きつけたノートと完全手書き用の筆記具が本作ではとても重要で、なぜならそれは、それらが書きつけられたときに、ガリガリと音を発するからだろうと思う。

同居する弟が録音を試みている自作曲の断片をのぞいて、劇中に音楽は使われていないのだが、状況説明や聾唖者同士の対話をあらわす字幕は惜しみなく多用される。言葉はとりあえずいいのだ。問題は音だ。

ただし聴覚障害者の主人公自身には、その音が届いてないはずで、主人公は音に対しては常に無反応かあるいは遅れて気づく。この映画を観ている観客は、音を伴う出来事のすべてを自身で感じるが、主人公のケイコはそれを受け取っていない、映画を観る観客はそのことを常に想像しながらスクリーンを観るが、ケイコの内面や心象は、潔癖なまでにこの映画に描かれない。音を聴かない人であることによって彼女は、周囲とも映画を観る視線からも、見事に断絶している、という印象を受ける。

この映画の「これは、かなりすごいものを観た」と感じざるを得ない手触りが何かと言えば、このある意味で清々しいほどの断絶感の手触りではないかと思う。これみよがしの孤独とかではないし、会長らとの信頼関係や後半で意欲を取り戻していく過程など、彼女が悲劇的に演出されているところは微塵もないのだが、それとは関係のない本来の断絶、存在している以上誰もが等しく引き受けているはずの断絶、とでも言いたいようなものの手触りがありはしないか、と思う。

それにしてもロケ地がどれもこれもほぼ全てが、自分の住んでる地域の近隣で、これはあそこ、ここはどこと、どの風景も具体的に名指しできそうな感じだった。それだけでなく、この映画はこの墨田、足立、葛飾区の空気感無しでは、まったくこのようにはならなかったはずの、景色そのものがおよぼす作用がとても大きい。河川敷の土手や電車高架、あるいは頭上に走る高速道路の高架などが適宜視界を遮っていて、屋外の空間を単調で平坦で空っぽではない、独特なものに印象付けている。