「人物画」の冒険


昔、美大受験用の美術予備校で人物デッサンしたりする場合、画面内の構図はほぼ決定していて、座像であれば膝下あたりまで納まるようにトリミングするし、全身入れる事もあったが、ああいうのを毎日のように何枚も描いていると、例えばモデルが向かって左に座っていたら、もうキャンバスの右上から左下にかけて、クランク状のフォルムを中心に、周辺も巻き込みつつ絵の具の戯れを4〜5時間やりつつ、ポイントだけを描写してつじつま合わせするような制作手順が、受験直前には確立していたような感じがする。


このような機械的行為が全く絵画的でないのは言うまでも無いが、まあこういう訓練をしていた受験生にも、たまに目の前に存在する人体の人体らしい芳香を感じて、手順をあえて踏み外したくなるような事があったようにも記憶する。


しかし、今後とも「人物画」を描くためには、どうすれば良いのか??という事を考えた時期がある。…でもこの悩みは相当矛盾している。何が矛盾かというと、人物に関する絵を描きたいのであれば、もうなにも考えず、描けばよいのだし、それが結果的に人物画になろうがなるまいが、どうでも良いことであるからだ。しかし僕の悩みは、前述したように「人物画」を成立させるにはどうすれば良いのか?という悩みであった。いま有効な人物画は可能か?みたいな。…まあ今も、かたちを変えて相変わらず考えてはいるけど。


昔の事だがそんな理由で、改めてじっくり見てみようと思ってデビッド・ホックニーの画集を買った事があった。タブローも素描も多様な素材で華麗に仕上げられていて超・上手い。とくに線がとてつもなく美しい。もう「人物画」とか言ってることの意味が無い。こんな達者だと却って何の参考にもならないと思ったが。しかしこの、徹底した薄くて殺菌されたようなイメージはやはり素晴らしい。絵画らしいかっちりしたハードな感じは保ちつつ、どのような空想も許してくれる気軽さもあって素敵である。


只、もうちょっと、ここまで淡白な(別に人物に何の屈託も思いいれもなさそうな)ホックニーより、やや泥臭くても良いから絵っぽい感覚の人が良いと思って、その後すぐR.Bキタイの画集を買った。キタイは…なんというか、かなり詰まらない作品もあるが、モノによっては大変良くて、結構一生懸命見た。特に素描なんかは素晴らしい。タブローはかなり良い物もあるが、かなりキツイものもある。まあでも、ドン臭い感じもありつつ、やっぱり僕は今でも、キタイが好きですがね!!まあでも、そういう詰まらない(効果や技法を掠め取りたいという)気持ちで、そういういろんな画集を見ても、あんまり良い参考にはならなかったようでもある。


ちなみに僕は、最近は中村貞以の画集を良く見ている。この日本画家も、モノによっては結構すごい良いんですが、やっぱり相当駄目な感じに見える作品もあり、総じてやっぱりイマイチドン臭い画家の雰囲気があるのだが、でも見てるとやっぱり「いいねえ」「最高だねえ」などと思っている僕である。


とりあえず結論的に言えることがあって、僕は絵画の趣向に関して、昔も今も基本的に、趣味が悪い。一流のものより、ぼやけた二流品の細部に拘泥するようなタイプかもしれない。あまり全体を見て総合的に適切な判断をするタイプではない。(免許習得時は、状況判断能力に難ありといわれました)…そんな僕だ。。


…ちなみに僕が見ている中村貞以の画集は「現代日本美人画全集」シリーズのひとつなのだが、関千代さんによる作品解説が、もうのけぞるばかりにものすごい。なんか裏の意図でもあるのか?と感じられる位の、究極のヨイショ文で、ここまで褒めまくられると本人的には逆に不愉快になりそうである。。「…人間としての深い懊悩が逆に人間を鍛え、本当のものが見えるようになり、凡人が同じように精進してもうかがい知ることの出来ない境地にまで到達できるのではないか。氏の作品からは、そんな思いに駆られるのである。」発行は昭和54年。。こういうのって、こんなモンなのでしょうか??