乃木坂で、マティス展の二回目を観た。

それにしてもいま、こうしてマティスの作品を観るということと、当時つまりその作品が描かれたばかりのときに観るということでは、大きな違いがあるのだろう。

マティスはこの世で、すでに巨匠でありその価値が確定しているという事実を、いったん忘れたとしても、やはり今と昔で、これらの作品を、人が観て感じ取る内実に、違いはあるはずだ。

なぜこのような作品が可能になったのか?それは画家の自信や勇気に起因するのか?あるいは周囲の理解や鼓舞によるのか?

たとえば、絵画は如何にしてであれ、人間による技法と修練の結果として存在する、だから絵画は如何にしてであれ、画家の思考や努力の痕跡が、そのどこかにあらわれるだろう。

マティスもそれはわかっていて、さらにそれが自分の方法によってきちんと伝達されることを、完全に信じている。そう思える根拠というか、それを可能にするだけの、彼の心の拠り所はきっと、自分の内側だけにあるのではななく、十九世紀後半から続く前衛芸術家たちのもたらしたものにも支えられていただろう。

そのときの、マティスの心の拠り所こそ、十九世紀後半以降の絵画の核心であり、モダニズムと呼ばれるものの核心だったのだろうと想像する。

だからマティスの絵画の向こう側に、先達の画家たちが、今の自分が知っているような事とはまるで別の何かとして、そこにはいるのだと、この作品を観る自分がマティスとして、それらを想像しなければいけないのだろう。

マティスの作品を観てよろこびを感じると同時に、その自分自身を頼りなく思う。よろこびは自分の内側だけに広がるもので、それは所詮自分を越えていくことはない。そこには連鎖がないと感じる。

希望は、マティス自身のよろこびを再生させることであり、マティスの心の拠り所としての十九世紀後半を再生させたいと願うことだ。