「モオツァルト・無常という事」 小林秀雄


モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)


僕は、星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いていた。何故、あの夢を破る様な笛の音や太鼓の音が、いつまでも耳に残るのであろうか。夢はまさしく破られたのではあるまいか。白い袖が翻り、金色の冠がきらめき、中将姫は、未だ眼の前を舞っている様子であった。それは快感の持続をいう様なものとは、何か全く違ったものの様に思われた。あれは一体何んだったのだろうか、何んと名づけたらよいのだろう、笛の音と一緒にツッツッと動き出したあの二つの真っ白な足袋は。いや、世阿弥は、はっきり「当麻」と名付けた筈だ。してみると、自分は信じているのかな、世阿弥という人物を、世阿弥という詩魂を。突然浮かんだこの考えは、僕を驚かした。 「当麻」より


小林秀雄の文章はいつも、こんな風に作品を観て感じている俺。というノリで、作品があって、それを観て感動している俺がいて、それら全体を別の場所から見てるもう一人の俺が、これを書いている。といういわば自意識の軌跡という感じだがしかし、それでは書き方の問題なのか?そんなこともないだろう。多かれ少なかれ、文章を書けば必ずこのようになる。ビョークやジェフベックについて書きたいと思っていくら書いても、その試みはやはり、それを語る人を説明する事にしかならない。


「無常という事」でも、「一言芳談抄」という書物の一節を読んで驚くほど生々しくたちあがって来た感覚を、今はもはやそのように感じることができないと書かれている。そして、それが一体どのような心の動きであったのかを「何を書くのか判然としないままに描き始めて」文字を重ね…

ただある充ち足りた時間があったことを思い出してるだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。


などと言う。…そのように思い出さなければ駄目なのだと語られるものが、一体何なのか、僕には今のところ正直さっぱり判らない。ただいずれにせよ、こういう観て感じた事を突き詰めていくと、モノの質なんか問えなくなるような事になってしまうのだろうか?。仮にそうだとしたら、そこまで行くのは素晴らしいことなのだろうか?幸福なことだろうか?でも今、自分が幸福ではないと感じるのであれば、やはりそれをめざすのが、最善の事なのだろうか。というか、そういうのはもっと「ものすごい人達」が抱える問題なのではないのか?


モノが大事なのだ。作品が良いのが大前提だ。みたいな言葉も、それを支える根拠がどこかにある以上、その実質を問われてしまうだろうし、与えられた空間でできるだけ適切に空気読む事がひたすら強迫観念的に目指されているのが、この世界の実像なのだから、それに向かって飽くなき努力を続けるなんていうのも、あまりにも虚無的でタカを括った自己完結過剰で、耐えられない。…というか、まあそんな事より、僕はとりあえずまだまだ書生の気分でなるべく本を読んだり色々するようにしてれば良いのだが。


そもそも「無常という事」を読むより先に、坂口安吾の「教祖の文学」を高校生くらいで読んじゃうと、ああ小林秀雄より坂口安吾の方がワイルドでいいんだな。とか阿呆みたいに思い込んだりしたものだが、今は坂口安吾って、そんな高校生の頃の自分になんか到底理解できないよな。かなりわかり難い。難解だ、と、ちょっと思う。


まあつべこべ言わずに引き続き、黙って黙々と読みます。