友人から電話があって色々話しているとき「そういえば耳の調子は大丈夫なの?」と言われて、一瞬、何の事?と思ったのだが、友人はたまにこのブログを見てくれているので、ここの記述を見てそのように心配してくれたらしい。確かに外耳炎になったのは事実だが、実際には僕の耳がひどく大変な状態になったという訳ではなく、医者の先生にあんなセリフを言われてないし看護士ふたりに抑え付けられたりもしていない。。友人もそれは判っているんだろうが、まあ平気だよ大げさに書いたけど、と応えた後、まあ僕のブログに書いてあることの7割は嘘だよ。と言って、友人もまあそうだと思ったけど、とか言っていた。


まあでもとりあえず、今まで書いてきた文章の中で、これこれこういう事があったとか、誰かがこう言ったとか、主に身辺雑記的な内容においては、かなりの割合で嘘である事は認める。妻が僕に何かこういう事を言ったとか、そういうセリフの類もほぼすべて嘘です。すいません(笑)…しかし、何かを観て面白くなかったのに面白かったと書くとか、その逆とか、行ってないのに行ったとか、そういう嘘は無い。さすがにそれはない。というか、それで文章が面白いモノになるかもしれなければ挑戦するかもしれないが、まあ、今のところは、無い。


そういえば高校生の頃の事だが、はじめて美術予備校に通い始めたとき、静物画のデッサンで花の生けた花瓶とかステンレスの筒とか石膏の首像とか重ねた布とかが組み合わさってテーブルに配置してあってそれを描く。という課題のとき、自分がイーゼルを構えた位置が、どうにも絵にするのが難しい位置で、こりゃ描いても描いても、すごい変な絵にならざるを得ないなあと思ってたら、講師の人に「お前何でこんなつまらない構図で描いてんだよ。絵にするために描いてんだから、いくら実際に在るからって、ここにこんなの描いたらおかしいだろ?もっと絵になるように自分で作れよ」とか云われて、もう現実のレイアウトと相当違うような配置の構図に修正された事があったのだが、…まあ今思えば当然の事だが、当時はものすごく感動した覚えがある。そうか!良い絵になるなら、場合に拠っては現実とか無視して嘘描いても良いのか!みたいなそういう感動。


こういう、何かのために何かを捨てる所作の理由が、とても明晰に感じられるものと、とても曖昧に感じられるものがあるが、それは優劣を意味するのではなくて、明晰にせよ曖昧にせよ、それがぐっと体験している自分に接近してくるときの感じだけが重要なのだ。ものを作るときにつく嘘とは、そういうのをリアルに感じさせるための、嘘なのだ。だからそういうののトレーニングをしたいというか、自分が読み返して何か感じたくて、そういう風に書いてるのだと思う。(まあ、文章で稚拙ながらも何か色々やりたがってる、とか思われるのは正直恥ずかしいのだが、まあ別にいいやと思ってあえて大いにやっている)


まあしかし、僕は自分がなんでそういう風に描いたり書いたりしてるのか、ほとんど判っていないし、何が達成されているのか、あるいは本当に自己満足と呼ばれるべき事態なのかも判らない。で、他者にも思ったようにはまるで届かない。これはマジで絶望的なほどである。地元の友人複数の証言だが、僕のブログの文章で「ウンチク」系のとか「長いの」は全部読み飛ばしてて、たまーに「笑える」のがあるけど、今までで一番「笑えた」ヤツを挙げるとすれば、これなんだそうだ…。えー!?まじで??よりによってそれかよ!全然笑えないでしょ?少しは「瀕死の人間を描いた迫真の描写」に震撼してよ!…ってか、これは真面目な話、僕本人が死に掛けましたよっていう話で、それこそ心配してほしいよ、友達だったら笑ってないでお見舞いくらいしたらどうなのよ!とか言いたくなる訳だが、まあ現実の受容の状態としてはそうではなく、いやーまあ、確かに書いた本人としてはそうなんだろうけど、読んでる方はとりあえずかなり笑えたけどねー、とか云われてしまうのであった。そうですか、ご高覧ありがとうね。これからもたまには読んでね。


まあ、あと余計な事を付け加えるとすれば、勿論この文章の中身だって全部本当じゃないかもしれない事は云うまでも無い。ってかこういう云い方って最高にツマラナイなあ…。嘘と本当の境目を曖昧にして…とか、そういうノリはどちらかというと嫌いなので、そういうのがやりたい訳ではないのだ。あくまでも「良きレイアウトの静物画を描きたい」っていうのがベースだ。でも一瞬だけ、その「良きレイアウト」自体が脱臼する瞬間にも憧れるのだ。