「乱れる」「浮雲」/「斜陽」


成瀬の「乱れる」とか「浮雲」とかを観ていると、もうこれは、どう考えても太宰治の「斜陽」という小説作品を思い出さずにはいられなくなる。もちろんこれらのお話の表層には何の関連性も共通性も感じられないが、しかし完全に重なったひとつの問いを奥底で共有しているとも云える。それは既存の制度や文化やしきたりや、信じられてきたものや賭けられて来たものを全て失った人間が、その後如何に生きるか?という問いである。…これは、もうジャンルの違いを問わず、戦後の焼け跡から生活を組織し直した日本人が抱えざるを得なかったテーマであり、当時の美術や映画や小説を取り巻く人々やそれ以外の人すべてが抱える共通の気分だったのだろうと思われる。


しかしこれらの物語上のテーマは、いつも作品を成立させるための下地のようなものになってしまっている。なぜなら美術や映画や小説とは内部組成のクオリティが高まるほど、物語を入れる容器である事をやめて自律しようとする特性をもつからだ。そして太宰にせよ成瀬にせよ、その設定の上で、自らの手腕を縦横無人に奮い、与えられた諸要素を激しく振動させて、とてつもない細部の洗練を達成し、芸術と呼んで差し支えない構造物を作り上げてしまった。だから、これらの作品は何度観ても新たに発見があるし、常に新鮮な甘美さに溢れている。


云うまでも無いが、作品が含有している甘美さ、というのは所謂感傷とかそういうものとは違う。感傷は外部の何かと組み合わさる事でしか効能を発揮しないが、甘美さは常に自らの内実としてあらわれる。それは地面が含有している地熱の温かみのようなものであり、鉱石にあらかじめ含まれている微弱な電気のようなものでもあり、規則的な打撃音が含有しているファンクネスのようなものでもある。


映画や小説や絵画も、物語上のテーマを薄皮として纏いつつ、中身はそのようなものでなければいけないのだ。だから多分、浮雲を観ても登場人物のようなああいう逃避行をしようとは思わない筈だし共感もしないだろう。でもなぜか圧倒されてしまう。斜陽のかず子のようになりたいと思う女性は少ない筈だが、それでもその苛烈さに読後数日は呆然とせざるを得ないだろう。別に人生の役にも生活の役にも立たないが、とにかく圧倒される。良いものとはそういうものなのだ。


…まあしかし、僕はこの「斜陽」という小説が大昔から本当に好きだったのだが、おそらく成瀬映画の連続体験が自分の内側に眠っていた記憶を呼び起こしたように思う。でもこうやって文章のネタにしてしまうと、全体的になんかツマラナイものだ。こうやって毎日毎日、ひとつひとつをツマラナイものにして行ってしまうのだから、文章を書くというのも微妙なもんだ。…「斜陽」で好きな箇所を挙げているとキリが無いのだが、鮮烈さの一例としては、もしキリスト者が聞いたら不愉快に思うのでは?という程の大胆な新約聖書(マタイ伝)からの引用所作であろう。母の死後、好きな男の元へ押しかけようとする主人公が自らを鼓舞するのと同時に読者をも直接煽るかのように結構な量、引用される。

帯のなかに金銀または銭を持つな。旅の嚢も、二枚の下衣も、鞋も、杖も持つな。視よ、我なんじらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。人々に心せよ、それは汝らを衆議所に付し、会堂にて鞭たん。また汝等わが故によりて、司たち王たちの前に曳かれん。かれら汝らを付さば、如何なにを言わんと思い煩うな、言うべき事は、その時さずけられるべし。これ言うものは汝等にあらず、其の中にありて言いたまう汝らの父の霊なり。又なんじら我が名のために凡ての人に憎まれん。されど終まで耐え忍ぶものは救わるべし。この町にて、責めらるる時は、かの町に逃れよ。誠に汝らに告ぐ、なんじらイスラエルの町々を巡り尽さぬうちに人の子は来るべし。

 身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜん為に来れり。それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑より分たん為なり。人の仇は、その家の者なるべし。我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず。又おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我に相応しからず。生命を得る者は、これを失い、我がために生命を失う者は、これを得べし


これで男の元へ旅立つんだから読んでるこっちは感動しちゃうってなもんだ(笑)・・・太宰フィルターを通した、太宰に拠って再発見されたこれらの言葉はとてつもなく輝かしい。

鳩(はと)のごとく素直(すなお)に、蛇(へび)のごとく慧(さと)かれ