「石中先生行状記」


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表題の作品をCS放映にて観る。1950年の作品。1945年の敗戦から1951年の「めし」登場に至るくらいまでの成瀬巳喜男の諸作品について、僕はまだそれらのうちのほとんどを未見なのだが、所謂「成瀬らしさ」が横溢して一挙に高みに登って満開になる直前の模索段階なものが並んでいるのではないかと想像している。今回の「石中先生行状記」もそうだし前に観た「浦島太郎の後裔」などもそうだったが、基本的にコメディの外枠をもち、全体はもっともらしく整っていながらもイマイチ決め手に欠けてるような、半信半疑でも無理矢理のカラ元気で盛りあげてしまおうとしてるような印象が感じられて興味深い。しかし本作「石中先生行状記」に関してはもう、既に数年後訪れる、何かを確信した作り手による、いかにも成瀬的な男女の醸しだす独特の空気がほぼ萌芽されている気配を濃厚に宿していて、思わず身を乗り出してしまうほどだった。


原作付きのオムニバス形式(3つの短編)で、それぞれ別個の恋愛にまつわる物語があって、石中先生が物語の案内人みたいな感じでそれぞれの物語にちょろっと顔を出す格好で、企画物の感触も強く、お話はどれもおそろしく他愛無いものばかりでとりたてて特筆すべき特徴もない。だいいち石中先生自体が映画の中でまったく存在感がなくて、はっきり云って本作はまあ、成瀬作品の中でも地味な位置づけに留まるのだろうが、しかし特に第二話「第二話・仲たがいの巻」における杉葉子については見過ごしてしまう訳にはいかないような強い何かを感じた。…これは以前「夫婦」を観た僕が杉葉子に心底惚れてしまったというだけの事かもしれなくて、今回第二話がはじまって杉が画面に最初に登場してくるだけで、その姿に思わず胸が高鳴ってしまう程だから、という以上の理由はないかもしれないのだが。


最初の登場シーンで杉はおなかがすいたと言って芋を片手にとり、時おりそれを齧って頬張りながら母親と話をしたり電話をかけに廊下へ移動したりする。…僕はこういう感じの一連のシークエンスを「成瀬テスト」と呼びたくなるような衝動に駆られる。何かを食べる、という動作を途切れさせる事なく話したり移動したり電話をかけたりという別の動作も挟み込んでいくという、こういう芝居というものほど、人間固有の隠せない癖や仕草などの個体差が露呈するのではなかろうか。普通、人はあのように話しながらせわしなく合間合間に物を口に運び、ろくに咀嚼もせずに次の言葉を話す、などという行動はとれないと思うが、おそらくここでの演技では「ここで話して、すぐに芋をもう一口頬張って、続いて間髪いれずに次のセリフを云って…」みたいな細かい指示が出ているのかもしれないし、テスト/本番でも何度も撮り直されているのかも知れない、そういう気配を感じる。結果的にここでの杉葉子の一連の演技はおそろしくスムーズに進み、ぽやーっと観てたら何でもないような流れに収まっている。そのスムーズさは僕なんかにはとても素晴らしいものに感じられるのだが、しかしはっきりいってこれが杉葉子という女優の限界なんだろうなあというのも明確に感じられる。杉葉子では、おそらく同じような演技をしたときの高峰秀子岡田茉莉子にかなわないかもしれない。後者の女優たちなら醸しだすであろうスピード感と軽妙さの呆気にとられるような驚きはない。


しかし、杉葉子には杉葉子にしかできないあらわれかたがあるのだ、という事も確かで、「仲たがいの巻」における杉葉子高峰秀子岡田茉莉子には絶対できないようなイメージを畳み掛けるようにあらわしていくのだ。…そもそもこの女優の、清楚なワンピースの姿から感じられる、当時の女性の体格としては異様なほど痩せていて手足の長い肢体の美しさときたらどうだろう。その真っ直ぐに伸びている針金のような体と慎ましく肩パットが入ったキレイな肩のライン、二の腕へと繋がる線の美しさは、それを見ているだけで満足感に満たされるほどだ。そしてキャメラを覗いている作り手の方も、そんな事は当から承知だと云わんばかりに、杉葉子仏頂面をさせたまま、真っ直ぐな長い腕を伸ばして「何かを指し示す」仕草を繰り返させるのだ。その指し示された指先には父親がいたり、恋人が置き忘れた自転車があったり、あるいは相手に対する自分の愛情をあらわすために胸の前に示された見えない尺定規であったりもするのだが、とにかくこれらの仕草が、杉葉子というカラダでしかあらわしようのないやり方で実施せられている。僕はただそれを食い入るように見つめるばかりだ。


あと「第三話・千草ぐるまの巻」も良かった。何が良かったかというと三船敏郎が良かった、という事なのだが。ここでの三船敏郎の、今まで僕の中にはびこっていた良くも悪くも黒澤映画内ヒーローみたいなやや一本調子なイメージをくつがえすかのように、本来もっているおそろしく端整な表情や均整のとれた肉体やちょっとした仕草の、粗野な逞しさや子供っぽい可愛さや清潔な媚態の香りなどが、とてもニュートラルに画面に映りこんでいるように思えてとても良かった。


…しかしここでも成瀬的と云い得る骨格のあらわれがあるように思う。それは成瀬にとっての男優の在り方だ。成瀬映画における女優とは、誰であってもいつも相当に厳しい高い壁に挑まされて、それを乗り越えようとする有様を逐一撮影されてるような結構被虐的な役割から逃れられないのだが、逆に男優は、「夫婦」の三国連太郎でも「娘・妻・母」の仲代達也でも「稲妻」の根上淳でも「乱れる」の加山雄三でも、ほとんど野放しで単に二枚目でもっともらしくしていてさえくれれば良いのだと云わんばかりに、そこの花瓶に生けてある花の小道具みたいなものとあまり変わらないような存在として置かれているのだと、本作での三船敏郎をみて改めて感じた。


…これは男性が安定的な立ち位置を確保して、その安全地帯から可愛い女優たちを苛めて、それを観て喜んでいるとか、そういう事ではまったくないのだという事は急いで付け加えておきたいが。そうではなくて、むしろ事態は逆で、成瀬映画の作り手はあきらかに女優の「女性的な何か」に無理矢理に心も体も預けてしまって、それらそのものに化身してしまうかのような所作で映画を作っているのだと思われる。だから成瀬映画におけるすべてのお話は女性(少なくとも今ここにいる自分ではない何か)からの視点で語られる。そのような自分の変わり身としての女性にとって、勿論男性は表面的には魅力的でも、その奥底はまったくうかがい知れず得体の知れないという、とりあえずはこちらにニコニコと親しげな笑みを浮かべてくれているだけの表層的な何かでしかないだろう。そのような訳のわからないものと、不可避的に関係が生じていくという事の新鮮な驚き自体が、おそらく成瀬映画に一貫するテーマなのだと僕は今のところ思っている。