羽虫が光に向かって一直線に進む。羽虫が光に向かうのは羽虫の意志ではなく本能であり、そのとき羽虫に迷いはなく決意もなく諦めもなく快楽もない。羽虫に選択の余地はないがゆえに、そのとき彼は賢明であり完璧な生命である。
動物は獲物を捕食し、ときには自身が捕食される。それは生態系に則している。動物はそのことに対して、意見をもたない。動物はその仕組みそのものを俯瞰しない。終始、その一部を担うばかりであり、そのことに対して彼らは意見がなく、意見のある場に彼らは存在しない。
人間はそのようなものへ、ときに憧れ、たとえば特攻隊の飛行機が、一直線に敵艦へ向かう、そのことが人間の、はじめて虫や動物と同等に美しくありえた、その瞬間なのだとうそぶきもする。でもそれは浅はかで、まともに取り合う価値もない欺瞞である。そんなイメージの薄紙一枚だけで、到底立ち向かえるものではなくて、でも、もうこのへんで良かろうと、かつての若い人たちはそこで諦めたのだろうと思う。つまり周囲に気配って、場を慮って、自他に高をくくったのだろう。それを人は「大人の態度」と呼ぶのだろう。
出来事はそれこそ、何百倍も何千倍も増幅して、自分をその一点に留まらせようとする。虫や動物たちと和解し、出会い直すのはそのときだ。食べられることさえ、はじめに思ってたのとは、ぜんぜん違うはずだ。