「テニスボーイの憂鬱」の主人公はテニス、その父親は狩猟を嗜む。この成金の親子は、共に「遊び」を知っている。テニスボーイの祖父は「百姓」として働くばかりで、一生遊ぶことがなかったと父親は言う。しかし遊びは果てしなく、満足を知らず、あれもやりたかった、これもやりたかったと、際限がない。

テニスボーイは愛人との逢瀬に生きる歓びを見出している。彼の事業は順調に拡大しており、経営者としての手腕を高く評価され、当然のごとく高級車に乗りレストランやホテルで高価な料理や酒を楽しむ。いつしか金も地位も手に入れ、ふさわしい生活を送っている。彼はそのことに満足している。

愛人とのひととき、それのみが仕事のモチベーションたりうるとテニスボーイは自覚している。仕事が楽しいわけでもなく、事業拡大の展望やさらなる野望を思い描くこともない。彼は愛人を愛しているのだが、同様に妻と子供と家庭も愛している。すべては自分が享受すべき快楽でもあるが、それだけでは説明のつかない、ある種のかけがえのなさも感じている。

「テニスボーイの憂鬱」が雑誌「ブルータス」で連載開始したのは1982年である。おそらく一回目が、主人公テニスボーイとテニスクラブの同僚「インテリアデザイナー」とのシングルス対戦で、そして二回目と思われるのが、父親や猟師仲間たちとの獅子鍋場面だろう。あらためて思い返すと、冒頭でこの二つのエピソードが並んでいるというのは強烈である。

獅子鍋の場面で、テニスボーイは友人にハブとマングースの話やマムシの話を熱っぽく語るのだが、この話のエグイ感じもさることながら、テニスボーイの語り口の変貌具合に度肝を抜かれる。これって誰…?とページを前後したくなるほど、このときだけテニスボーイは、まるで山奥から下りてきた土民みたいな、それまでとは別人格みたいなものの言い方で喋る。

村上龍は、どこかで聞いた強烈な話や面白エピソードを、執筆中の小説内に遠慮なくガンガン挿入して憚らない人だと思われるのだが、この箇所はまさにそれが剥き出しになっていて、それがほとんど語らせる登場人物の同一性さえ揺らぐほどの結果になっていると思う。この箇所はすごく面白いと思ったのだけど、やはり連載がはじまったばかりの手探り感の渦中だからこそ、こういう場面もアリになったのか。それ以降最後まで、ここまで刺激的な「不整合感」はこの小説内には登場しない。

そして作中にあらわれるいくつかのモチーフから推測されるに、おそらく「テニスボーイの憂鬱」が始まったこの時点で「愛と幻想のファシズム」は、すでに萌芽しており、着々と作品の骨格を形成し始めていたのではないかと考えたくなる。

テニスボーイはひたすら愛人に魅惑され、それを何度も反芻しているかのように見えるが、彼にそれを可能にしてくれるもの、テニスボーイという人物を形作るフレーム(おそらくこの小説自体のフレーム、この小説が実現した理由)こそがテニスであり、テニスコートである。その長方形に囲まれたテニスコートという場所が、如何に神聖で盤石であり、人間の社会性や関係性が凝縮されていて、それが如何に完璧な精度で再現前される磁場であるかが、テニスレジェンドらによる過去の名言も織り交ぜられつつ、熱く執拗に語られる。そんな登場人物を支えるものが、狩猟ではなく本作ではテニスであったということ。人の心を安らかにし根底を支えうる抽象性は「テニスボーイの憂鬱」においてはテニスコートという空間に担保されているけれども、それがズルっと「ファシズム」へスライドしたのではないかと。

もしかすると「貧乏(馬鹿、無教養)な左翼」に対する、「贅沢(知的、優雅)な右翼」という構図--やがてデビューする福田和也が自らをそのようにセルフデザインしたような--をはじめて形作ったのも、この当時の村上龍ってことになるのだろうか。