「テニスボーイの憂鬱」の主人公は、物語が始まった直後においては、始終周囲を見回し、彼が所有する高級車とは無縁の、市井の「貧乏人」の、自分に対する態度や仕草や目つきを見て、それを蔑み、嘲笑し、優越感をおぼえ、自分がああでなくてよかったと胸をなでおろす、そのくせ自信にあふれた人物や美女を前にすると、怯み、挙動を乱し、不安になる。

彼のそんな内面は隠されることなく、むしろ露悪的なくらいに、無邪気ささえ感じさせるくらいな筆致で描かれている。

もし、生きるうえで最低限必要な悪意というのがあるなら、これではないか。誰もが多かれ少なかれ、このような屈託をもって生きているのだと言うならば、たしかにそれは、そうなのかもしれない。

この長い小説で、主人公は基本的に反省しないし、是正もしない。ときには不安をおぼえつつも「俺は悪くない」と自分に呼びかけ、とにかくそのままであろうとする。

仕事は順調であり、妻子との関係も、体調を崩した父親の術後の経過もすべて良好で、愛人の堕胎施術もひとまず終わって、彼を脅かすものは何もないはずだ。いくつかの小波乱はあっても、基本は最初から最後まで、ずっとそうだ。

ただ、前半に顕著でありながら、じょじょに目立たなくなるのは、必要だったはずの悪意だろう。愛人と過ごし、シャンペンを飲み、テニスに嵩じるうちに、少しずつそれは消えていく。

そのこと自体は結構なことかもしれない。彼にふさわしい生活とさまざまな象徴物があり、それを当然のように嗜み、愛人を想い続ける。それを継続できるだけの力量が、彼にはある。

が、このまま何もかもが、悪意も嫉妬も必要とせず、望めば手に入る、この自分にふさわしい、そして何の変哲もない、かつての輝きを失った何かへ、変わっていきはしないのだろうか。

まるで「夕立ち」のように、すべての屈託が洗い流されてしまい、彼の欲望そのものを洗い流してしまう日がやって来ることはないだろうか(夕立ちが降ったら、テニスは出来ないな、と、この小説の最後にテニスボーイは思う)。

そのとき彼は「すべてに飽きてしまう」のだろうか。もしその時が来て、テニスさえ彼を救うことが出来ないのだとしたら。