新しい文明


星新一の「明治・父・アメリカ」を読み始めてしまった。数日前にたまたまぱらぱらめくっていたら、そのまま読み続ける事になってしまった。明治の感触を知るのにはかなり良い物語だ。というか、自分の父親や祖父についてすごく素直に屈託なく語っている印象で、星新一にかかれば肉親もエヌ氏やエフ氏と同等なのかもなあと思ったけど、それでも読み進めていくと、ある種の屈託めいた部分も出てくる。でもその屈託自体が、ちょっと星新一的に薄っぺらい感じなのだ。ここでの「薄っぺらい」は、全然悪い意味ではないつもり。


しかし明治ってすごい時代だ。星の父親にあたる佐吉は、学問に強く興味をもっており、家の財力もあって、良く勉強したので、やがて村の小学校の先生になるのである。これが明治19年、佐吉が12才のときである。教え子の方が年上のケースも普通だった。まあ字が読めなくて普通という時代だからこそ、そういう事も往々にしてあるだろう。


そのころの教科書はほとんどがアメリカの教科書を翻訳したものだったらしい。そこには「新鮮な思想が盛りこまれていた。」たとえばこんな。

二人の少年が、古い教会の屋根にあがって遊んでいた。そのうち、大きな音をたてて、屋根がこわれた。少年のうちの一人は、なんとか梁を手でつかむことができた。そして、その足首に、もう一人がつかまるという形になった。

時間が流れる。大声で助けを呼んだが、だれも来てくれない。梁につかまっている少年が言う。

「手が疲れて、もう、これ以上はがまんできないよ」

すると、足につかまっているほうの少年が聞く。

「ぼくが足からはなれたら、きみは助かりそうかい」

「たぶん、梁の上にあがれるだろう」

「わかった。じゃあ、ぼくは落ちよう。友よ、グッド・バイ」


…「読んで、佐吉自身がまず感動した。これまでに接してきた儒教の影響の多い本には、こんな話はのってなかった。」とある。この「新鮮さ」は、お話の内容自体に宿る何かだけではないのだ。もっと根本的な「新鮮さ」なのだと思われる。